日本の英語教育は何故だめか 日本の英語教育は何故だめか?
浜口 登
第1節 序
最初にお断りしておきたい。私は英語の教師ではない。大学では経済学と統計学を教えている。門外漢の私がこのような論文を書く理由は次のようなものである。第1に、私自身がアメリカに7年近く留学し、最近2年間在外研究で再びアメリカで過ごした経験がある。第2に、留学に先立って2年間ほど英語の特訓をやった。第3に、中学から大学まで英語教育を受けた。このような経験から、私は、日本における英語教育には根本的かつ深刻な問題点がある、と考えるようになった。日本人の英語能力が世界的に見て極めて低いことはよく知られている。たとえば、日本人のTOEFL (Test of English as a Foreign Language)の点数は世界中で最も低くグループに属し、下から数えた方が早い。
実をいうと、1991年の3月から10ヶ月にわたって、English Expressという英語教育の雑誌に「学校英語は役に立つか?」というエッセイを連載したことがある。それから、10年以上が経過し、改めて私の考えを表現したいと考えたのである。
私は、経済学者である。そのことが、私の価値観に強い影響を与えていることは間違いない。ところが、経済学というのは、いろいろな意味で微妙な立場にある。経済学は社会科学の中で最も体系的で標準化されており、自然科学に近い。自然科学系の学問だと役に立つことがかなりはっきりと目に見える形で分かることが多い。しかし、経済学は他の社会科学や人文科学と比べるとはるかに役に立ちそうに見えるものの、本当に役立つかは、必ずしも明確でない。そこで、経済学者は、自然科学者に対し一種の劣等感を持つと同時に、人文科学者に対し、優越感を持つ傾向がある。人文科学者は、「そもそも学問が役に立つなどというのは幻想に過ぎない」と開き直り、役に立っているような態度をとる経済学者に反感を持つ傾向がある� ��うに思える。そのような開き直りのため、人文科学者の間では「反プラグマティズム」がはびこっているのではないだろうか。
ついでにいえば、私は、米国に長くいたので、アメリカ的なものを無批判で受け入れる反面、日本的なものに対し、ほとんど異常なくらい反感を持つ傾向がある。本稿も、そのような私の価値観を色濃く反映しているはずだ。本来論文は出来るだけ客観的に書かれるべきだろう。しかし、いかなる価値観とも無縁な論文を書くことは誰にもできないはずだ。そこで、著者は、自分の価値観をできるだけ正直に表明すべきだと考える。
本稿では、もっぱら英語について論じている。しかし、同じ議論が他の外国語(とりわけフランス語、ドイツ語、スペイン語)についてもそのまま当てはまるだろう。ただ、2つの点を指摘しておきたい。第1に、英語(特にアメリカ英語)の「覇権」が極めて強く、その傾向は現在ますます強まっている。したがって、英語を学ぶ価値は、その他の外国語を学ぶ価値よりはるかに高い。第2に、日本語と英語の違いと仏・独・スペイン語と英語の違いは本質的に違う。英・仏・独・スペイン語は、非常によく似ている。たとえば、情報に対応する英語は information だが、フランス語でも、(発音はかなり違うが)つづりは全く同じだ。つまり、日本人が英語を学ぶのと、フランス人が英語を学ぶのでは、根本的に異なる。詳細は本文で述べるが、日本人が英語を学ぶときは、日本語の世界と英語の世界は全く別なので、日本語の世界を抜け出て英語の世界に入る、という感覚で対処することが重要である。
第2節 何が問題なのか
この問いに答えるためには、何のために英語を学ぶのかを明確にする必要がある。私は、日本人が日本語を使えない人とコミュニケーションできるようにすることが、最重要課題だと思う。その理由は、このコミュニケーション能力自体が重要であるということだけではない。詳しくは以下で述べるが、まずコミュニケーションができなければ、何も始まらない、ということを指摘したい。このことを一応前提として、日本における英語教育の何が問題なのかを具体的に論じよう。
2.1 英語のできない英語の教師
まず、英語の教師が英語を実際に使えないことが決して珍しくないという実態がある。中学、高校、大学で英語を教えている人々の中には、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア等の英語国に行って、入国審査、ホテルでのチェックイン、レストランでの食事、店での買い物等々におけるごく日常的会話すら満足に出来ない人が少なくない。要するに、英語を使えない人が教えているから、習う学生の英語能力がさっぱり上がらないのは、ある意味で当然だろう。ここで「使えない」とは、言語の4つの能力、@読む、A書く、B話す、C聞く、のうち、出来るのはせいぜい@だけで、それ以外はネイティブ・スピカー(以下NSと略す)とまともに対応できないという意味である。
2.2 英文和訳・和文英訳の弊害
第2に、英文和訳と和文英訳を重視しすぎている。極端に言えば、これら2つだけが目的で、他はどうでもよいと考えているのではないかとさえ思われる。しかし、これは最も深刻な誤りである。理由は次の通りである。
(1)英文を理解したかどうかを和文に訳せるか否かで判断するというのは根本的に誤っている。和訳するには、まず英文を英文としてよく理解したうえで、それに適切に対応する和文を考えねばならない。したがって、和訳というのは、英語の能力というよりは日本語の能力といっても過言ではない。何故かを説明するために実例を出そう。私は、ある人から「英語の本を和訳して出版したいのだけれど、訳をチェックして欲しい」と頼まれたことがある。訳文は間違っていない(つまり誤訳はない)のだが、日本語になっていないのである。この訳文を日本人が読んでも、おそらく全く分からないのではないかと思った。
日本は「翻訳天国」で、少しでも売れそうな外国語の本が出版されるとすぐ訳本が出る。しかし、訳のなかには極めて読みにくいものが多い。そして、「翻訳天国」であること自体が、日本人の英語能力を低くしている。大学で、英語で書かれた原書をテキストにしたくても、訳本が出るので、学生に「訳ではなく、原著を読みなさい」と指示しても、誰もそれに従わない。教え子の1人が「同僚と一緒にアメリカに留学するので、数理統計学の勉強会を手伝っていただけませんか」と頼んできたことがある。そこで、私はアメリカ人が書いた原著をテキストに使うことを提案したら、何と和訳でやりたいというので、あきれた。ゼミの教材に日本人が英語で書いた論文を使ったら、学生全員が「日本人なのに何で英語で書くんだ。頭にくる」といったので、がっかりしたことがある。
(2)もし和訳できるほど英語が十分理解できるのなら、和訳は必要ない。もし、英文が理解できないのなら、和訳などできるわけがない。だから、和訳を英語教育の中心に据えるのは邪道である。通訳者を毎年何万にも世に送り出す必要はない。通訳の技能は通訳学校を作って少数の人に教えれば十分である。
一方、和文英訳も英語能力向上にあまり役立たないどころか、むしろ有害とさえいえる。なぜなら、和文英訳を繰り返していると、まず日本語で作文し、それを英文に翻訳する癖がつくからである。これでは、実際に自分で自分の考え方を表現しようとしても間に合わない。
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