2012年5月18日金曜日

日本の英語教育は何故だめか


日本の英語教育は何故だめか

日本の英語教育は何故だめか?

浜口 登

 

第1節         

最初にお断りしておきたい。私は英語の教師ではない。大学では経済学と統計学を教えている。門外漢の私がこのような論文を書く理由は次のようなものである。第1に、私自身がアメリカに7年近く留学し、最近2年間在外研究で再びアメリカで過ごした経験がある。第2に、留学に先立って2年間ほど英語の特訓をやった。第3に、中学から大学まで英語教育を受けた。このような経験から、私は、日本における英語教育には根本的かつ深刻な問題点がある、と考えるようになった。日本人の英語能力が世界的に見て極めて低いことはよく知られている。たとえば、日本人のTOEFL (Test of English as a Foreign Language)の点数は世界中で最も低くグループに属し、下から数えた方が早い。

 実をいうと、1991年の3月から10ヶ月にわたって、English Expressという英語教育の雑誌に「学校英語は役に立つか?」というエッセイを連載したことがある。それから、10年以上が経過し、改めて私の考えを表現したいと考えたのである。

私は、経済学者である。そのことが、私の価値観に強い影響を与えていることは間違いない。ところが、経済学というのは、いろいろな意味で微妙な立場にある。経済学は社会科学の中で最も体系的で標準化されており、自然科学に近い。自然科学系の学問だと役に立つことがかなりはっきりと目に見える形で分かることが多い。しかし、経済学は他の社会科学や人文科学と比べるとはるかに役に立ちそうに見えるものの、本当に役立つかは、必ずしも明確でない。そこで、経済学者は、自然科学者に対し一種の劣等感を持つと同時に、人文科学者に対し、優越感を持つ傾向がある。人文科学者は、「そもそも学問が役に立つなどというのは幻想に過ぎない」と開き直り、役に立っているような態度をとる経済学者に反感を持つ傾向がある� ��うに思える。そのような開き直りのため、人文科学者の間では「反プラグマティズム」がはびこっているのではないだろうか。

 ついでにいえば、私は、米国に長くいたので、アメリカ的なものを無批判で受け入れる反面、日本的なものに対し、ほとんど異常なくらい反感を持つ傾向がある。本稿も、そのような私の価値観を色濃く反映しているはずだ。本来論文は出来るだけ客観的に書かれるべきだろう。しかし、いかなる価値観とも無縁な論文を書くことは誰にもできないはずだ。そこで、著者は、自分の価値観をできるだけ正直に表明すべきだと考える。

 本稿では、もっぱら英語について論じている。しかし、同じ議論が他の外国語(とりわけフランス語、ドイツ語、スペイン語)についてもそのまま当てはまるだろう。ただ、2つの点を指摘しておきたい。第1に、英語(特にアメリカ英語)の「覇権」が極めて強く、その傾向は現在ますます強まっている。したがって、英語を学ぶ価値は、その他の外国語を学ぶ価値よりはるかに高い。第2に、日本語と英語の違いと仏・独・スペイン語と英語の違いは本質的に違う。英・仏・独・スペイン語は、非常によく似ている。たとえば、情報に対応する英語は information だが、フランス語でも、(発音はかなり違うが)つづりは全く同じだ。つまり、日本人が英語を学ぶのと、フランス人が英語を学ぶのでは、根本的に異なる。詳細は本文で述べるが、日本人が英語を学ぶときは、日本語の世界と英語の世界は全く別なので、日本語の世界を抜け出て英語の世界に入る、という感覚で対処することが重要である。

 

第2節          何が問題なのか

この問いに答えるためには、何のために英語を学ぶのかを明確にする必要がある。私は、日本人が日本語を使えない人とコミュニケーションできるようにすることが、最重要課題だと思う。その理由は、このコミュニケーション能力自体が重要であるということだけではない。詳しくは以下で述べるが、まずコミュニケーションができなければ、何も始まらない、ということを指摘したい。このことを一応前提として、日本における英語教育の何が問題なのかを具体的に論じよう。

2.1 英語のできない英語の教師

まず、英語の教師が英語を実際に使えないことが決して珍しくないという実態がある。中学、高校、大学で英語を教えている人々の中には、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア等の英語国に行って、入国審査、ホテルでのチェックイン、レストランでの食事、店での買い物等々におけるごく日常的会話すら満足に出来ない人が少なくない。要するに、英語を使えない人が教えているから、習う学生の英語能力がさっぱり上がらないのは、ある意味で当然だろう。ここで「使えない」とは、言語の4つの能力、@読む、A書く、B話す、C聞く、のうち、出来るのはせいぜい@だけで、それ以外はネイティブ・スピカー(以下NSと略す)とまともに対応できないという意味である。

2.2 英文和訳・和文英訳の弊害

 第2に、英文和訳と和文英訳を重視しすぎている。極端に言えば、これら2つだけが目的で、他はどうでもよいと考えているのではないかとさえ思われる。しかし、これは最も深刻な誤りである。理由は次の通りである。

(1)英文を理解したかどうかを和文に訳せるか否かで判断するというのは根本的に誤っている。和訳するには、まず英文を英文としてよく理解したうえで、それに適切に対応する和文を考えねばならない。したがって、和訳というのは、英語の能力というよりは日本語の能力といっても過言ではない。何故かを説明するために実例を出そう。私は、ある人から「英語の本を和訳して出版したいのだけれど、訳をチェックして欲しい」と頼まれたことがある。訳文は間違っていない(つまり誤訳はない)のだが、日本語になっていないのである。この訳文を日本人が読んでも、おそらく全く分からないのではないかと思った。 

日本は「翻訳天国」で、少しでも売れそうな外国語の本が出版されるとすぐ訳本が出る。しかし、訳のなかには極めて読みにくいものが多い。そして、「翻訳天国」であること自体が、日本人の英語能力を低くしている。大学で、英語で書かれた原書をテキストにしたくても、訳本が出るので、学生に「訳ではなく、原著を読みなさい」と指示しても、誰もそれに従わない。教え子の1人が「同僚と一緒にアメリカに留学するので、数理統計学の勉強会を手伝っていただけませんか」と頼んできたことがある。そこで、私はアメリカ人が書いた原著をテキストに使うことを提案したら、何と和訳でやりたいというので、あきれた。ゼミの教材に日本人が英語で書いた論文を使ったら、学生全員が「日本人なのに何で英語で書くんだ。頭にくる」といったので、がっかりしたことがある。

(2)もし和訳できるほど英語が十分理解できるのなら、和訳は必要ない。もし、英文が理解できないのなら、和訳などできるわけがない。だから、和訳を英語教育の中心に据えるのは邪道である。通訳者を毎年何万にも世に送り出す必要はない。通訳の技能は通訳学校を作って少数の人に教えれば十分である。

 一方、和文英訳も英語能力向上にあまり役立たないどころか、むしろ有害とさえいえる。なぜなら、和文英訳を繰り返していると、まず日本語で作文し、それを英文に翻訳する癖がつくからである。これでは、実際に自分で自分の考え方を表現しようとしても間に合わない。


不安:別の名エッセイコリアの挑戦

(3)さらに、「英語で考える」能力が養われない。この能力養成こそが英語教育の本来の目的であるはずだ。英語を学ぶ目的は、英語文化を理解することである。英語のネイティブ・スピーカーは、時として日本人には理解しがたい思考なり行動をする。その理解しがたいところを理解するために英語の学習が欠かせないのである。

(4)英文和訳と和文英訳は、英語の能力として余りにも特殊である上、最も難しい。教育は、その対象が何であれ、やさしいことから始めて、難しいことほど後で教える方がよいのは自明の理ではないだろうか。

2.3 サウンドとしての英語

 第3に、日本の英語教育は英語を文字列として視覚的に捉えることから始めることが多い。たとえば、中学校の英語の授業で真っ先に習うのは、アルファベットのつづりと個々の文字の発音である。これも大きな誤りである。英語はサウンドとして、聴覚的に捉えることから始めるべきである。何故かといえば、読み書きより聞く・話す方がはるかにやさしいからである。このことを証明するのは簡単だ。まず、幼い子供は、両親など周囲の人々が話しかけるのを聞いて、それを真似ることによって少しずつしゃべれるようになる。しかし、読んだり、書いたりするのはずっと後である。個人差はあるにせよ、5歳くらいになれば、他人の言う事を理解し、自分の意思を発言できるようになる。しかし、文章を読んだり書いたり出来るようになるのはずっと後である。また、世界には文盲の人は何億人といるが、彼らは読み書きが出来ないだけで、聞いたり話したりすることには全く不自由していない。

  英語をサウンドとして捉えるというのは、それほど突飛なアイディアではない。たとえば、ピアノのレッスンを受ける人が、「まず楽譜の読み方から始めなくては」などと考えるだろうか?普通は実際にピアノの鍵盤を弾いて、「このキーを弾くとこういう音がする」といったことから始めるのではないだろうか。世界的に有名なピアニストの中には、(眼が不自由ではないのに)全く楽譜が読めない人がけっこういる。つまり、楽譜が読めることはピアノを弾けるようになるための必要条件でも十分条件でもないわけだ。逆に、譜面をいくら読んでも、実際にピアノの鍵盤を弾く練習を繰り返さない限りピアノが弾けるようにならないのは自明の理だろう。

3.4 文法偏重

 第4に、文法の勉強が必要以上に強調されている。もちろん、文法を無視していいわけではない。問題は、英語の文法を、まるで法律や数学の定理のような理路整然としたルールのように扱っているのではないかという点である。しかし、文法は「こういう場合には、NSはこういうように表現する」という例を集めただけのものにすぎない。実際文法を勉強すると「何故このようなルールがあるのか」という素朴な疑問が、しばしば生じる。そうした疑問に対し、NSが理路整然とした説明ができることはむしろ例外で、多くの場合「そういう慣習になっているとしかいいようがない」という答えが返ってくるのが普通だ。特に英語の文法は例外が多すぎて、全部を覚えるのは不可能だろう。これはフランス語の例だが、名詞を男性名詞と女性名詞に区別し、対応する冠詞も異なっている。しかし、何故性によって区別する理由はない。その上、男性名詞と女性名詞の区別は実際の性別とは関係がない。たとえばネクタイを使うのは普通男性なのにフランス語では la cravate で女性名詞である。

日本の英語教育では「意訳をするな。直訳せよ。意訳するのは、もっと上級になってからにせよ。何故なら、意訳すると文法が身に付かないからだ」とやかましくいう傾向がある。しかし、これは本末転倒である。英語を理解することが目的であり、文法は理解のための手段に過ぎない。

いずれにせよ、NSの使っている英語に触れていれば、文法はおのずと身につく。というより、それ以外に身につける方法はない。

3.5 分解してはならない

日本で英語を教えている教師は、文法を生徒の頭に叩き込み、後は単語・熟語を丸暗記させれば、英語が使えるようになると考えているように思われる。つまり、英文を、単語・熟語にバラバラに分解して、丸暗記し、それらを文法に従って組み立てるという方法を教えているのではないだろうか。このような「プラモデル」方式は、全く通用しない。英語は、少なくともワンセンテンスごと、出来ればワンパラグラフごとに身に着けるべきである。個々の単語や熟語は1つの文章の文脈のなかではじめて理解できるものである。同時に、文脈を無視して個々の単語・熟語の意味を考えると、とんでもない誤解を招く危険性がある。ここでいう「誤解」は、政治家がよく口にする(悪用することも多い)。「あなた方ジャーナリストは、私� ��発言の中から特定の表現を、文脈から切り離して、勝手に引用し、読者に誤解を与えている」と。

 NHKの英会話番組を担当され、日本における同時通訳者の草分けである國弘正雄氏は、名著『英語の話し方』(サイマル出版社)の中で、「中学校程度の英語のリーダーをひたすら、繰り返し音読せよ」と述べている。野口悠紀雄氏も『「超」勉強法』(講談社、1995年)のなかで全く同じことを提唱している。

 この場合、「音読」がミソである。声を出して読むことが重要である。単に文字を眺めているのとでは大違いだ。これは「英語をサウンドとして聴覚的に捉える」という考え方と関係する。

3.6 カタカナ語問題

 英文和訳を試みた人なら誰でも、どうしても日本語にならない英語にぶつかって頭をかかえたことがあるだろう。そのようなとき、「いっそ英語そのものを覚えた方が速い」と思ったのではないか。たとえば、 aggressive という言葉は「積極的な」という良いニュアンスと「攻撃的な」というやや悪いニュアンスを兼ね備えていて、日本語の中にぴったりくる言葉がない。この場合、アグレッシブとカタカナ表記した方が無難だと思われる。

かなり昔から、日本語にはカタカナ語が多すぎるという議論がある。ここでいうカタカナ語とは、外国で生まれた言葉をカタカナに変換して日本語の一部として使うという意味である。確かに、カタカナ語の中には、従来から日本語として定着している言葉をわざわざ馴染みのないカタカナ語に変えて、日本語を分かりにくくしている例は多い。この点については、次のような点を指摘しておきたい。

 第1に、カタカナ語が増えること自体がよくないとは必ずしもいえない。「カタカナ語の氾濫は日本語を乱す、あるいは汚す」といった主張は、基本的に価値判断の問題なので、実りある議論はできないだろう。ただし、カタカナ語は、ほとんどの場合、外来語なのだが、日本にもともとなかった言葉であれば、その原語の発音をまねてカタカナ表示するべきか、翻訳して日本語の新語にすべきなのか、という選択の問題になる。この点に関して一般論を述べるのは難しい。しかし、多くの場合カタカナ表示の方が簡単かつ誤解を避けやすいと思われる。だいたい、もともと日本になかった言葉をカタカナ表示にすることを嫌う人が何をするかといえば、漢字表記するだけだ。漢字は中国から「輸入」した文化の象徴ではな� ��か。アルファベットは駄目だが、漢字はよろしいというのはどういうロジックなのだろうか。


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 第2に、和製英語の氾濫に対しては、もっと真剣に考えるべきである。たとえば、野球で、ボールが外野のフェンスを超えていないのに、バッターが本塁に帰ってくることを、日本人は running home run というが、これは和製英語で、正しくは、inside the ballpark home run である。ランニング・ホームランというのはいかにも和製英語的な感じがする。アメリカ人が聞くと、「ホーム・ランという物(人?)が走る」というように受け取るだろう。このような和製英語を目にすると、日本人は英語の感覚を理解していないことが分かる。また、日本人は、何故これほど言葉の使い方に無神経なのか、という疑問がわく。一昔前まで日本で上映される洋画のタイトルは原題と全く無関係なことが多かった。たとえば、Out of Africa が「愛と悲しみの果てに」といった具合だった。しかし、最近は、原題をカタカナ表記することがほとんどという状況に大きく変わった。ところが、カタカナ表示の題名の意味が分かっていないことがかなりあることが分かった。たとえば、20031月に封切られたBourne Identity という映画がある。Bourne は固有名詞(主人公の名前)で、辞書には載っていない。あるTVの番組で、この映画を見に来た若者に「ボーン・アイデンティティーとはどういう意味か分かりますか?」という質問をしたところ、「ボーンは骨 (bone!)でしょ。アイデンティティーって何だったけ?えーと・・・分かんない」と答えていた。要するに、意味がどうであれ、そんなことはどうでもいいわけだ。単にカッコよく聞こえればよいということである。

 第3に、カタカナ語には、余り議論されていない一つ大きなメリットがある。それは、日本語の深刻な問題点の一つである同音異義語の氾濫を解決する有効な手段になりうる、という点である。

 

第3節          役立つ英語とは何か

「役に立つ英語」といった概念に反発する人は少なくない。「英語を学ぶ目的は、社会に出て、英語が役に立つようにすることではない。英語の背景にある英語文化を学ぶことが目的だ」と主張する人々も多い。問題なのは、いわゆる「実用英語」を毛嫌いする人々のなかに、「役に立つ英語」と「教養のための英語」は別であり、両者は相容れないと考えている人がいるように見受けられることである。

 しかし、「役に立たない英語」を学んで「教養」が身につくはずはない。何故なら、教えている英語が役に立たないとすれば、そのような「英語」はネイティブ・スピーカーが使わない、あるいは理解できない「英語」であるはずだ。そのような「英語」はそもそも英語とはいえない。そのようなものを学んで、どうして英語文化を理解できるのだろうか?

 「役に立つ英語」に異を唱える人々は、しばしば、ヨーロッパ諸国で行われているラテン語教育を引き合いに出す。彼らは、「ラテン語を公用語にしている国は皆無なのにもかかわらず、ヨーロッパ諸国ではラテン語教育が必須になっている。だから、英語教育も役立つために教える必要はない。役に立つことにこだわるのは、むしろ邪道だ」という。しかし、これは完全な誤解である。確かに、ラテン語を習得しても、実用にならない。誰も実際に使わないのだから、このことは自明の理だ。しかし、ヨーロッパで行われているラテン語教育では、実際に使えば人々の間で意思疎通が出来るように教えているのである。つまり、役に立つように教えるということと、実際に役に立つか否かは、全く別問題なのである。より具体的にいえ� ��、英語を役に立つように教えるべきか否かという問題と、学生が卒業後英語を役立てるか否かは全く別問題である。前者は教育方針の問題だから、公の集団的意思決定の問題である。一方、後者は、一人ひとりの人生設計の問題であり、学校が関与できないし、関与すべき問題でもない。

 そもそも、「役に立つ」という概念は、一見すると客観的概念に見えるが、実際は極めて主観的概念である。何故かといえば、「役に立つ」という場合、「何の」役に立つのかという目的ないし目標が明確に示されない限り判断出来ないわけで、その目的や目標の設定は、自ずと主観的にならざるを得ないからである。ということは、英語が役に立つかどうかを、一般的に判断することは無理であり、個人ごとにそれぞれ判断するしかないという結論になるはずだ。

 

第5節 非効率的な日本の英語教育

日本の英語教育は、明らかに非効率的である。つまり、英語の学習に費やされた時間、費用、労力に比べ生徒の英語能力の向上が余りにも小さいのである。ところが、日本の教育界にはびこっている奇妙な反プラグマティズムのために、効率が悪いことを気にしないどこか、教育に「効率」などという経済的概念を持ち込むことを、かたくなに拒否する傾向がある。

しかし、好き嫌いや良し悪しとは関係なく、そして、本人がどのように自覚するかとも関係なく、教育というのは自分自身に対する投資なのである。何故かというと、教育や訓練を受けた人とそうでない人では労働者として(あるいは1人の人間として)価値に差が出るからだ。経済発展の最も重要な鍵の一つは「迂回生産の利益」である。たとえば、ロビンソン・クルーソーのように1人しかいない社会を考え、彼の仕事は川で魚を捕ることだけで、それを食べて何とか生きているとしよう。最も原始的な方法は手づかみで魚を捕まえることだ。しかし、1日魚捕りを休んで、網を作ると、その日は漁獲量がゼロなので、腹がへってきついが、網が完成すると、今までよりより容易くより多く魚捕りが可能になる。だから、経済発展というのは、今日の消費を犠牲にする代わりに将来の消費をより豊かにするプロセスなのである。

教育を受けると2重の費用がかかる。第1に、教育そのものの費用がある。学校を建てる、教師を雇う、教科書を作る等々である。第2に、教育を受けている間働いて所得を稼ぐことができない。つまり、教育を受ける代わりに働けば得られたであろう所得も教育の費用になる。したがって、コストをかける以上、できるだけ効率よく教育の効果が出るように努めるのは教育者にとって当然の義務である。

 

6節 英語教育と日本人のアイデンティティー

 英語教育の目的は、英語文化を理解するためである。すると、日本人としてのアイデンティティーが失われるのではないかと恐れる人がいるかもしれない。確かに、英語教育には、一種の「洗脳作用」があるかもしれない。英語教育を通じて、たとえば、American way of life が日本社会に浸透するのは、避け難いかも知れない。 しかし、英語文化を「理解する」ということと、それに「同意する」ことは全く別だ。「理解」とは、「理由や根拠が分かる」ということであるのに対し、「同意」とは、「同じ意見を持つ」ことである。「理解できても、同意はしかねる」ということは、我々が日々経験していることである。実際、「気持ちは分かるがね・・・」とよく言うではないか。したがって、英語文化の理解に努めることによって、日本文化が英語文化に吸収されてしまうなどという心配は杞憂である。もし、それでも心配なら、英語教育と共に日本語教育もきちんとやればよいだけの話だ。


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 ただ、今日のように世界がボーダーレス化・グローバル化している時代では、自国文化を純粋な形で守り、外国の影響から隔離しようなどという試みは所詮無駄な努力である。現代は、文化も競争の時代である。人々にアピールする文化は生き残り、そうでない文化は自然淘汰される。今日の文化は、国際競争のなかで生き残りを賭けて戦い、鍛えられ、より強固になっていく。もちろん、人気のない文化は全て消えるに任せる、というわけには行かないだろう。伝統的な文化のなかには、たとえ人気がなくても守るべきものもあることは確かだ。しかし、伝統というのは、我々の生活を豊かにするための手段であって目的ではない。この場合、豊かさとは、必ずしも物質的なものだけではなく、精神的なものも含まれるのはもちろんで� ��る。しかし、単に歴史が長いというだけの理由で何でもかんでも保存するという考え方には賛成できない。

 同時に、今や日本は超大国になったのだから、もっと積極的に日本文化を世界に紹介すべきだろう。そのためには、海外からもっと留学生を招くとか、世界各地に日本語学校を作るといった政策が必要である。この点に関していくつか注意したい点がある。

 第1に、あまり知られていないが、極めて有効な政策がある。それは、英語で Chair と呼ばれる制度で、日本で言う「寄付講座」に近い。普通の教授は、所属する大学から給与を受け取る。しかし、Chair になると、特定の基金から給与や研究費が支払われる。別な言い方をすると、特定のテーマを専門とする研究者を基金で雇うのである。そこで、日本研究の専門家向けの講座を設け、特定の大学に寄付するわけだ。日本研究に興味を持つ学者は世界中にいるし、現在大学院で勉強中の学生の中にも日本研究を専門にしたいと思っている人が少なくない。しかし、大学に日本研究の講座がないと、就職できないので、日本研究の専門家になることを躊躇する場合が多い。したがって、確実な就職口を確保することは、日本研究を促進する上で非常に有効なのである。

 第2に、日本人は、自国の文化を特殊で、他国の人々には理解されないだろうと思い込んでいる傾向がある。たとえば、ドナルド・キーン氏が日本文学に関して優れた業績を上げても、「よりによって何故外人(がいじん)が日本文学を研究するのだろう?」と不思議がったり、「外人に日本文学が分かるはずはない」と決め付けていないだろうか。ついでにいえば、このような考えを持つ人々のなかに、日本人がシェークスピア研究をすることには何の疑問も持たない場合が多いことも指摘しておきたい。

 第3に、海外から留学生を迎える場合、日本文化に「同意」してもらえることを期待すべきではない。あくまで、「理解」だけを求めるべきである。日本文化に「同意」するか否かは、相手の個人的価値観の問題であって、日本人が関与できないし、関与すべき問題でもない。

 

7節 体験的英語上達法

7.1とにかく英語に触れよ

まず、英語をマスターするための王道といったものは、残念ながら存在しない。つまり、これをやれば全てOKといった好都合な方法はない。しかし、「正しい」英語に触れている限り、あらゆる方法が英語上達に役立つ。ここで言う「正しい」英語とは、英語のネイティブ・スピーカーが実際に使っている英語である。英語の能力を高めたかったら、ひたすら「正しい」英語に触れることが重要である。

 どの方法が良いとか、この方法は間違っていないか、などと悩む暇があったら一語でも多く読み、書き、聞き、話すことである。英語能力は、英語に触れている時間の単純増加関数といっても過言ではない。誤解を恐れずに、単純化すれば、英語学習は質より量である。

 この命題の最も簡単な証明は、英語国で長年暮らした人の方が日本ばかりで暮らした人より、英語がはるかにうまいという観測的事実である。「本当に英語をマスターしたかったら、英語国に行かねばだめだ」というのはかなりの程度真実である。さらに、私自身の経験からすると、同じアメリカで生活した日本人でも、配偶者が日本語をほとんど話さない英語のネイティブ・スピーカーである場合が英語が最もうまく、日本人が配偶者の場合が最もへた、独身者や単身赴任者の場合は、両者の中間というのが率直な印象であった。配偶者が日本人では、外では英語を話しても家に帰れば日本語になってしまうから、英語の上達が遅れるのは当然だろう。

 今日、様々な語学教材が売られている。しかし、どのように「効率的」で、「正しい」方法を利用しても、量をこなさなければ、英語は決して身につかない。英語上達の必須条件は、量をこなせる忍耐力と執念である。

7.2 日本語よさようなら

 英語上達の重要な鍵の1つは、できるだけ日本語から離れることである。極端に単純化していえば、日本語の世界と英語の世界は、余りにも違うので、英語を使う(読み・書き・聞き・話す)時は、日本語の世界を抜け出して、英語の世界に入るべきだという考え方である。自分の頭の中で、日本語モードと英語モードの間のスイッチを切り替えよということだ。これを完璧に出来る人はほとんどいないだろう。しかし、この切り替えをできるだけやらないかぎり英語の上達は望めない。

 英語国に行った日本人でも、大人より子供の方が英語の上達がはるかに速い。これは、子供の頭の中に日本語があまり詰まっていないので、その分英語が入りやすいからだと思われる。もう一つ重要なのは、子供の方が大人より、「間違った英語を話したり書いたりしたら恥ずかしい」という羞恥心がはるかに少ないことがあろう。実際、この羞恥心こそ、英語上達の最大の障害の一つである。

 日本語の世界から英語の世界にスィッチするためには、辞書は英和・和英辞典を使わず、英英辞典を使うとか、日本語の新聞の代わりに英字新聞を読むとかすべきである。

7.3 ともかく実際に使うことが先決

英語の能力には4種類がある。(1)読む、(2)書く、(3)聞く、(4)話すである。(1)と(2)が1つのペアになり、(3)と(4)がもう1つのペアになる。それはどういう意味かというと、うまく書くためには、たくさんの英文を読んで、それをまねることから出発するし、上手に話すためには、できるだけ多く聞いて、それをまねることから始めるという意味である。

我々が日本語を話せるように、あるいは、書けるようになる過程を考えれば、この命題が正しいことが分かるだろう。赤ん坊は始めのうちは何もしゃべれない。彼らがよく泣くのは、親のしつけ方に問題がある場合もあるが、たいがいは、言葉をしゃべれないからそのハンディーを克服する手段として泣くのである。しかし、親が一生懸命話かけると、少しずつそれをまねて話せるようになる。書く方も同じだ。最初は、親の書いたものとか、教科書に書いてある文章をまねて書く。最初は、ぎこちなくても、だんだん上手に話したり、書いたりできるようになる。したがって、日本人が英語を勉強するなら、最初は、赤ん坊になったつもりで、ひたすらネイティブ・スピーカーの猿真似をするしかない。大人になっていることは、英語習� ��にとってむしろハンディーと考えたほうがよい。よく、冗談めかして「いやー教養が邪魔して・・・」ということがあるが、英語の習得の場合は、冗談と思っていたものが冗談でなくなる。クリエイティブ・イングリシュなどというのはナンセンスである。そもそも、英語が話せるためには、脳細胞のなかに、英文がインプットされていなければ無利だ。書けるためににも英文のインプットが必要だ。インプットなしにアウトプットが得られるはずがないことは、別に大脳生理学者でなくても分かる話だろう。

ただし、聞くことは話すための必要条件であっても十分条件ではない。単に聞いているだけではだめで、やはり、実際に話す訓練をする必要がある。同様に、書く練習も必要である。


聞くときには、できれば映像を伴っている方がよい。一番よいのは、TVドラマで、特に平凡な日常生活を描いたものが薦められる。映画は、余りよくない。何故かというと、TVの場合、倫理規制があるため、下品な表現が出てこないのに対し、映画では、過剰なほど(つまり、実際の日常生活で使われる以上に)下品な(特にセックスや排泄物に関連した)表現が頻繁に使われるからである。また下品でないないにせよ、くだけすぎた表現も多すぎる。

7.4 聞く能力の重要性

4つある英語の機能のうち、聞く能力を身につけることがなぜ重要かを説明しよう。読む、書く、話すは、普通自分のペースでできるし、間違いをネイティブ・スピーカーにチェックしてもらいながらできる。しかし、聞くこと関しては、それができない。一対一で会話するなら別だが、日本人の留学生が教室で「もう少しゆっくり話してくれ」とか「もう1度言ってくれ」といった要求を連発することはできない。ビジネスマンが英語で会議をする場合も同様だろう。

日本人の中には、高い授業料を払って英会話学校に通う人もいる。それが無駄だとはいえないが、もっと安上がりで効果のある方法もある。AM電波を捉えるラジオを持っていない人はまずいないと思うが、単なるラジオなら、1000円も出せば買えるだろう。日本ではどこでもFar East Network (FEN) というアメリカ軍の放送がかなりよく聞こえる。大部分はロックの音楽だが、毎時間5分程度のニュースがあり、夕方には報道特集もある。自分が部屋にいるときFENをかけっぱなしにしておくと、聞き取りのよい練習になるだろう。TVを持っていない人もいないと思うが、地上波の番組だけでも、英語のドラマや映画を2重音声で見聞きできることがけっこうある。あるいは、NHKの午後7時からのニュース(30分)を日本語で聞きながらVHSテープに録画し、音声を英語に切り替えて再生しながら見るのもよいだろう。

ウォークマン(ヘッド・フォン・ステレオ)を歩きながら、あるいは電車のなかで聞いている人が多い。実は、ウォークマンは英語学習の強力な武器になりうる。FENのニュースを録音したものを聞くと、最初はほとんど理解できなくても、繰り返し聞いていると、不思議なことに次第に分かってくる。もし、衛星放送 (BS) を受信できれば、毎週月曜の午後2時から約45分間の、This Week という番組は特にお勧めである。特にラウンド・テーブルという討論会は、単なる英語学習でなく、有効な議論の仕方のお手本になるので、よいと思われる。

7.5 ボキャブラリーの拡大

 日本の中学生や高校生は、単語帳を使って単語のスペルや意味を丸暗記することが多い。しかし、単語帳ほど馬鹿げた勉強法はない。文章と切り離して単語を暗記しても何の役にも立たない。いわゆる「豆単」などは諸悪の根源だ。

 記憶の鍵は、連想と繰り返しに尽きる。いくら英語が苦手な人でもtake make のつづりを間違えることはないだろう。これは、これらの単語が英文の中に頻繁に登場するため、いつの間にか覚えてしまったからである。連想が鍵になるというのは、次のような意味である。たとえば、自分のお気に入りの映画の印象的なシーンに出てきたセリフなどは、それがかなり難しいものでも、意外に憶えているものである。これは、映画の思い出と英単語や英文とが連想でつながっているからであろう。

 したがって、ボキャブラリーを豊富にするには、出来るだけ多く英語に触れること、そして常に「面白い」あるいは「役に立ちそうな」表現はないかと捜す努力を怠らないことが重要だろう。

 

8節 英語教育をどのように改革するか

8.1 誰が英語を教えるべきか

 日本の学校で英語を教えるのは、文学部で英・米文学を学んだ人々であることが圧倒的に多い。しかし、これは問題が大きい。何故かというと、文学の勉強・研究と英語教育は一見関係がありそうに見えるが、実はほとんど無関係だと思われるからである。米国では、言語学部に Teaching English as a Foreign Language (TEFL) という科目があり、修士号と博士号が取れる。この科目名から分かるように、英語を外国語として習う人にどのように教えるかという方法論を身に付けさせるための講座である。英語を教える以上このTEFLの修士号の取得を義務付けるのは当然と思われる。ところが、日本で英語を教えている教師の中に、TEFLはおろか、英語国に留学した経験が全くない人が非常に多いというのは、実に驚くべきことである。

 日本では、NSを英語の授業に「助手」として雇うことが、かなり普及している。しかし、どうせNSを雇うなら、彼らを教師にした方がよいのではなかろうか。

8.2 何歳から英語教育を始めるべきか

現在のところ、英語教育は中学1年生から始められる。しかし、それは明らかに遅すぎる。せめて、小学校1年生から始めるべきである。「まず、日本語能力を十分身に付けてから英語教育を始めるべきだ」と主張する人は多い。「日本語を身に付けるだけでも大変なのに、英語を教えたら、生徒の負担が増えすぎてかわいそうだ」とか「同時に2ヶ国語を教えると生徒が混乱する」あるいは「日本人なのだから、日本人としてのアイデンティティーを確立するのが最優先であり、外国語はその後」といった主張である。

 このような主張をどう評価するかは、価値観に強く依存するので一般論を論じるのは無理がある。しかし、「2重の負担になる」、「生徒が混乱する」、「日本人としてのアイデンティティーが失われる」といった懸念は杞憂だと思われる。日本に住んでいる外国人で日本人と結婚したカップルから聞いた話では、「日本語で話しかけると、日本語で答えるし、英語で話しかけると英語で答える。混乱しているとは思えない」という答えしか聞こえてこない。また、日本人としてのアイデンティティーを重視するなら、なおさら英語を学ぶべきだと思われる。何故なら、他の文化と比較するからこそ、自国の文化がどのようなものか分かるのであって、日本文化だけ教わってアイデンティティーが確立できると思うのは、「井戸の中の蛙」の発想であってナンセンスである。第2次世界大戦中、日本は「鬼畜米英」と称して、英語を徹底的に排除したのに対し、米国では「敵となった日本の文化を学べば戦闘上有利だ」と考えて、日本研究を積極的に進めたことはよく知られている。

 

参考文献*

國弘正雄 (1970) 『英語の話し方:同時通訳者の提言』(サイマル出版会)

佐伯智義 (1992) 『科学的な外国語学習法』(講談社)

野口悠紀雄 (1995) 『「超」勉強法』(講談社)

野口悠紀雄 (1997) 『「超」勉強法・実践編』(講談社)

マークス寿子 (1995) 『爆弾的英語教育改革論』(草思社)

*ここに挙げた文献は、本稿の執筆に直接参考にしたものみである。もっとも、これらを含め参考文献を詳細に検討したわけではない。本稿の内容は、基本的に、筆者の個人的な体験に依存するところが大きい。従って、多少なりとも「1人よがり」な点が多いだろう。読者から忌憚のないコメントをいただければ幸いである。



 

かつて、ヴェトナム戦争が泥沼化し、反戦運動が華やかだったとき、あるアメリカ人が、「日本での英語教育には問題がある。英語を教えるときに、いかにアメリカ文明がすばらしいかを宣伝しているのはケシカラン。中国(中華人民共和国)では、英語を教えているが、全て、中国の日常生活を例にして教えているので、American way of life を中国の生徒は全く教わらない。日本も中国を見習うべきだ」と力説していた。この人物は、自分が、American way of life が嫌いだというれっきとしたイデオロギーを浸透させようとしていることには気づいていないようだった。



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