1世紀中頃のものとされる「金印」には「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」という漢字がはっきりと記されている。
だが「金印」は中国から日本に送られたもの、つまり中国語。 「土器に絵とかあるいは記号、符号のような形のものとして、彫られるということがあったんですけど、漢字を知った人々が大勢やってきて、そこで日本ではじめて日本で本格的に漢字の使用が始まったということだと思います」(沖森卓也教授)
日本人がはじめて目にした文字というツール。
やがて日本人は5世紀頃から、積極的に中国へ渡航したり、渡来の人々が来たりすることによって、文字を学んでいくのである。
そんな時代のとある歴史の授業。
先生は口伝えで生徒に歴史を教え、生徒らがそれを復唱して記憶していた。
だが、中国人の生徒は文字を書いていた。
文字をはじめて見た日本人に衝撃が走る。
「文字を教えてくれよ!」
こうして海外からやって来たコミュニケーションツールは、瞬く間に日本人の心を捉えたのだった。
「文字を使うということはすでに発達した文化圏の中に入っていくということで、つまり中国との関係、朝鮮半島との関係からも、文字を使わざるをえない時期に入ってきたんだろうと思います」(大東文化大学文学部・山口謡司准教授)
文字を知った日本人は、中国の文章を読むことで文化をどんどん吸収。
また中国の文化だけではなく政治体制も学ぶことができ、やがて聖徳太子が制定した「十七条憲法」や、文武天皇の「大宝律令」へと実を結んでいくのである。
それでは、5世紀に雄略天皇とされる人物が中国に送った文章の一部を見てみよう。
このようにこの時代の日本人が書く文章は中国語で、読む時も中国語のままだった。
日本の文字の歴史、次なるステップは法隆寺。
金堂に鎮座する国宝・薬師如来像の裏側に秘密が刻まれていた。
要約すると、以下のようになる。
「用明天皇が自らの病気平癒のため、寺と薬師像を作ろうと発願したが、お亡くなりになったため、その意思を継いだ推古天皇と聖徳太子が、推古15年(607年)に完成させた」とある。
一見するとこの文章は中国語だが、実は日本語の文法が使用された画期的な文章。
「中国語の文の構成は、主語、述語(動詞)、最後に目的語が来るように並んでいます。日本語の文章は、主語、目的語、最後に動詞が来ます。この光背銘の文章は、日本語と同じように書いてあるんです」(山口謡司准教授)
例えば、中国語では「作薬師像」となる文章が、ここでは「薬師像作」と書いてある、つまり日本語の語順になっている。
「日本語的な訛りと言いますか、中国語としての漢文じゃなくて、日本語の要素 が入った漢文というものが出来上がったということですね。そこで新しい日本の文字の歴史というものが始まるんだと思います」(沖森卓也教授)
だが、中国語の発音で書く漢文は、まだまだ日本人にとって難しいものだった。
そこで日本人は発想の転換をする。
漢文にとらわれず、漢字が持つ音を利用して、普段話している日本語をそのまま表記しようとする逆転技を思いついたのだ。
漢字の音だけを使って、全部当て字で書いてしまう。
そう、暴走族が作ったあの言葉「夜露四苦(よろしく)」と同じ。
だが、このやり方は非常に効率が悪かった。
例として、「桃太郎」の冒頭を当て字で見てみよう。
これだけの漢字を書くのは手間がかかって仕方がない。
日本人がぶつかった大きな壁。
どうすれば効率よく日本語を書くことができるのか?
苦悩した日本人は、またもやアイデアを振り絞る。
それが小学生から漢字の読み書きで習う「訓」である。
中国語と日本語を組み合わせたのだ。
つまり、こういうこと。
日本語の「也麻(やま)」は中国語では「山(サン)」だが、「也麻(やま)」と日本風に書くのは面倒くさい。だから、同じ意味の「山(サン)」を「山(やま)」と読もう!
同じように、「加和(かわ)」は「川(セン)」と書いて「川(かわ)」と読もう!
「これを"訓"というふうに言いますけれども、この"訓"を持つことによって、日本語のその後の漢字の使用が大きく変わっていく」(沖森卓也教授)
漢字の「音」や「訓」を利用して日本語を表記する用字法を「万葉仮名」と呼ぶ。
この発明により、ついに日本人は、普段使っている言葉で文章を書く方法を一応の形で完成させたのだ。
では、万葉集の一首を見てみよう。
これは柿本人麻呂の和歌。
「音」を赤、「訓」を青で示すとこうなる。
「音」「訓」を上手く使用している。
そう、「万葉仮名」は中国の漢字を借りてフル活用した、画期的な日本人の大発明。
そんな「万葉仮名」を使って書かれたのが、奈良時代の書物である「古事記」や「日本書紀」や「万葉集」。
だからこそ現代に生きる我々にとって、日本語で書かれた「万葉集」は、原文のままで見ると難しいが、耳で聞けば理解できるのだ。
また、「万葉仮名」は、当時の日本人が話していたであろう喋り言葉の音も我々に伝えてくれるという。
「例えば『キ』という言葉は、我々は『キ』としか発音しないが、当時の人にとっては音が2種類あった(上の画像参照)。なぜ分かるかというと、万葉仮名で漢字を区別してあるんです。そうすることによって、奈良時代の人たちが喋っていたであろう音の体系を復元することができる」(山口謡司准教授)
一説ではアイウエオの母音が8母音、存在したと言われている。
他にもこのように現代とは違っていたとされている。
名詞の発音も現代とは異なるものが多数ある。
「パパうえつぁま、ほらディェップディェップんが、ちょんでうぃまつぅぃよ」(母上様、ほら、蝶々が飛んでいますよ」
「ほんちゃうでぃぇつぅね、ぴらぴらちょんでくわいらつぃい」(本当ですね、ぴらぴら飛んで可愛らしい)
聖徳太子もこのような発言をしていたのだろうか?
(2)平安時代
兵庫県神戸市の甲南女子大学に、13世紀に書かれたとみられる「源氏物語」の一部「梅枝(うめがえ)」が所蔵されている。
これが日本最古の源氏物語の写本。
そこにはいくつか「ひらがな」が読み取れる。
このように「源氏物語」は「ひらがな」で書かれた物語。
一体なぜ「ひらがな」で書かれたのか?
「自分の思う通りに書けるような、効率の良い書体というのが求められたということですね」(沖森卓也教授)
奈良時代に生まれた「万葉仮名」は一文字の画数が多く、とても効率が悪かった。
そこで、文字を崩したり端折って書く「草仮名」が作られ、さらに簡略化された日本語が生まれた。
こうして簡略化が進んだことにより生まれたのが、「ひらがな」という日本独自の文字。
「ひらがな」は9世紀にはすでに誕生していたと見られる。
「万葉仮名」のように複雑な漢字に惑わされることなく、日本語を発音どおり、話し言葉に近い形で書き表すことができるようになった。
これなら、心の機微も表現しやすい。
しかし、貴族の中でも頭の固いおじさんたちには「ひらがな」は今ひとつ。
文字というものは本来「漢字」で書くもの、フニャフニャした「ひらがな」などもってのほかだったのだ。
ところがこの「ひらがな」に飛びついた人がいた。
それは宮中の若い女性たち。
昔から女子は、新しくて便利なものに敏感だった。
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