2012年4月10日火曜日

ぼやきくっくり | 「たけしの教科書に載らない日本人の謎2012」日本語特集


 1世紀中頃のものとされる「金印」には「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」という漢字がはっきりと記されている。
 だが「金印」は中国から日本に送られたもの、つまり中国語。

 「土器に絵とかあるいは記号、符号のような形のものとして、彫られるということがあったんですけど、漢字を知った人々が大勢やってきて、そこで日本ではじめて日本で本格的に漢字の使用が始まったということだと思います」(沖森卓也教授)

 日本人がはじめて目にした文字というツール。
 やがて日本人は5世紀頃から、積極的に中国へ渡航したり、渡来の人々が来たりすることによって、文字を学んでいくのである。

 そんな時代のとある歴史の授業。
 先生は口伝えで生徒に歴史を教え、生徒らがそれを復唱して記憶していた。

 だが、中国人の生徒は文字を書いていた。
 文字をはじめて見た日本人に衝撃が走る。
 「文字を教えてくれよ!」

 こうして海外からやって来たコミュニケーションツールは、瞬く間に日本人の心を捉えたのだった。

 「文字を使うということはすでに発達した文化圏の中に入っていくということで、つまり中国との関係、朝鮮半島との関係からも、文字を使わざるをえない時期に入ってきたんだろうと思います」(大東文化大学文学部・山口謡司准教授)

 文字を知った日本人は、中国の文章を読むことで文化をどんどん吸収。
 また中国の文化だけではなく政治体制も学ぶことができ、やがて聖徳太子が制定した「十七条憲法」や、文武天皇の「大宝律令」へと実を結んでいくのである。

 それでは、5世紀に雄略天皇とされる人物が中国に送った文章の一部を見てみよう。

 このようにこの時代の日本人が書く文章は中国語で、読む時も中国語のままだった。

 日本の文字の歴史、次なるステップは法隆寺。
 金堂に鎮座する国宝・薬師如来像の裏側に秘密が刻まれていた。

 要約すると、以下のようになる。

 「用明天皇が自らの病気平癒のため、寺と薬師像を作ろうと発願したが、お亡くなりになったため、その意思を継いだ推古天皇と聖徳太子が、推古15年(607年)に完成させた」とある。

 一見するとこの文章は中国語だが、実は日本語の文法が使用された画期的な文章。

 「中国語の文の構成は、主語、述語(動詞)、最後に目的語が来るように並んでいます。日本語の文章は、主語、目的語、最後に動詞が来ます。この光背銘の文章は、日本語と同じように書いてあるんです」(山口謡司准教授)

 例えば、中国語では「作薬師像」となる文章が、ここでは「薬師像作」と書いてある、つまり日本語の語順になっている。

 「日本語的な訛りと言いますか、中国語としての漢文じゃなくて、日本語の要素 が入った漢文というものが出来上がったということですね。そこで新しい日本の文字の歴史というものが始まるんだと思います」(沖森卓也教授)

 だが、中国語の発音で書く漢文は、まだまだ日本人にとって難しいものだった。
 そこで日本人は発想の転換をする。

 漢文にとらわれず、漢字が持つ音を利用して、普段話している日本語をそのまま表記しようとする逆転技を思いついたのだ。

 漢字の音だけを使って、全部当て字で書いてしまう。
 そう、暴走族が作ったあの言葉「夜露四苦(よろしく)」と同じ。

 だが、このやり方は非常に効率が悪かった。
 例として、「桃太郎」の冒頭を当て字で見てみよう。

 これだけの漢字を書くのは手間がかかって仕方がない。
 日本人がぶつかった大きな壁。
 どうすれば効率よく日本語を書くことができるのか?

 苦悩した日本人は、またもやアイデアを振り絞る。
 それが小学生から漢字の読み書きで習う「訓」である。
 中国語と日本語を組み合わせたのだ。

 つまり、こういうこと。
 日本語の「也麻(やま)」は中国語では「山(サン)」だが、「也麻(やま)」と日本風に書くのは面倒くさい。だから、同じ意味の「山(サン)」を「山(やま)」と読もう!
 同じように、「加和(かわ)」は「川(セン)」と書いて「川(かわ)」と読もう!

 「これを"訓"というふうに言いますけれども、この"訓"を持つことによって、日本語のその後の漢字の使用が大きく変わっていく」(沖森卓也教授)

 漢字の「音」や「訓」を利用して日本語を表記する用字法を「万葉仮名」と呼ぶ。
 この発明により、ついに日本人は、普段使っている言葉で文章を書く方法を一応の形で完成させたのだ。

 では、万葉集の一首を見てみよう。
 これは柿本人麻呂の和歌。
 「音」を赤、「訓」を青で示すとこうなる。

 「音」「訓」を上手く使用している。

 そう、「万葉仮名」は中国の漢字を借りてフル活用した、画期的な日本人の大発明。
 そんな「万葉仮名」を使って書かれたのが、奈良時代の書物である「古事記」や「日本書紀」や「万葉集」。

 だからこそ現代に生きる我々にとって、日本語で書かれた「万葉集」は、原文のままで見ると難しいが、耳で聞けば理解できるのだ。

 また、「万葉仮名」は、当時の日本人が話していたであろう喋り言葉の音も我々に伝えてくれるという。

 「例えば『キ』という言葉は、我々は『キ』としか発音しないが、当時の人にとっては音が2種類あった(上の画像参照)。なぜ分かるかというと、万葉仮名で漢字を区別してあるんです。そうすることによって、奈良時代の人たちが喋っていたであろう音の体系を復元することができる」(山口謡司准教授)

 一説ではアイウエオの母音が8母音、存在したと言われている。
 他にもこのように現代とは違っていたとされている。
 名詞の発音も現代とは異なるものが多数ある。

 「パパうえつぁま、ほらディェップディェップんが、ちょんでうぃまつぅぃよ」(母上様、ほら、蝶々が飛んでいますよ」
 「ほんちゃうでぃぇつぅね、ぴらぴらちょんでくいらつぃい」(本当ですね、ぴらぴら飛んで可愛らしい)

 聖徳太子もこのような発言をしていたのだろうか?

(2)平安時代

 兵庫県神戸市の甲南女子大学に、13世紀に書かれたとみられる「源氏物語」の一部「梅枝(うめがえ)」が所蔵されている。
 これが日本最古の源氏物語の写本。

 そこにはいくつか「ひらがな」が読み取れる。
 このように「源氏物語」は「ひらがな」で書かれた物語。
 一体なぜ「ひらがな」で書かれたのか?

 「自分の思う通りに書けるような、効率の良い書体というのが求められたということですね」(沖森卓也教授)

 奈良時代に生まれた「万葉仮名」は一文字の画数が多く、とても効率が悪かった。
 そこで、文字を崩したり端折って書く「草仮名」が作られ、さらに簡略化された日本語が生まれた。

 こうして簡略化が進んだことにより生まれたのが、「ひらがな」という日本独自の文字。
 「ひらがな」は9世紀にはすでに誕生していたと見られる。

 「万葉仮名」のように複雑な漢字に惑わされることなく、日本語を発音どおり、話し言葉に近い形で書き表すことができるようになった。
 これなら、心の機微も表現しやすい。

 しかし、貴族の中でも頭の固いおじさんたちには「ひらがな」は今ひとつ。
 文字というものは本来「漢字」で書くもの、フニャフニャした「ひらがな」などもってのほかだったのだ。

 ところがこの「ひらがな」に飛びついた人がいた。
 それは宮中の若い女性たち。
 昔から女子は、新しくて便利なものに敏感だった。


APA形式の注釈付きの書誌を記述する方法

 「例えば今の女子高生たちが、丸文字のような独自の文字を使ったり、独特の言い回しを使ったりするというのは、当時の『ひらがな』の世界と同じだったと思います」(沖森卓也教授)

 「ひらがな」の普及により、女性文化としての和歌が盛り上がったのだ。

 さらに、この時代の貴族たちは一日に何度も手紙のやりとりをしていた。
 これはまさに現代におけるメールと同じである。

 ちなみに、「カタカナ」も「ひらがな」と同時期に生まれた。
 「サ」は「散」から、「イ」は「伊」から作られたカタカナ。
 もともと「カタカナ」は仏門の僧の中で、素早く文字を書くため、勉強効率化のため生まれたのだ。

 現代まで続く、「ひらがな」「カタカナ」「漢字」という3種類の文字は、この頃からできていたのである。

 「漢字」と「ひらがな」で表現することができるようになった日本語。
 では話し言葉はどうだったのか?

 何と平安時代の話し言葉を再現した音源があるという。
 しかし誰も聞いたはずのない話し言葉が、一体どうやって分かるのか?

 「平安時代の末期に作られた類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)という辞書がありまして、これには全ての和語に対してアクセントがついています」(山口謡司准教授)

 そして「万葉仮名」の発音と、鎌倉時代に書かれた発音に関する書物から、平安時代の発音は導き出せるというのだ。

 平安時代の話し言葉における「源氏物語」読み上げ音声テープを聞くと(番組では実際にテープを再生)、何とか聞き取れるが、怪奇映画のナレーション(@ビートたけし)のように遅い!

 ところで、平安時代の人と私たちとで会話は成立するのか?

 「まず速度の違いがありますね。発音は我々の使っている日本語と比べるともっ� �複雑。複雑な発音をするのにゆっくりと発音したんだろうと思います。我々は速度が遅すぎてついていけないだろうと思います」(山口謡司准教授)

(3)鎌倉時代

 奈良時代、平安時代と変化してきた日本語に、またもや大きな変化が起きる。

 「平安時代に話された古典的日本語は、院政・鎌倉時代を経由して大きく変化し、現代の日本語に近付いていきます」(小林千草・東海大学教授)

 その大きな変化の陰には、武士たちの存在があった。

 鎌倉時代、1180年(治承4年)、平清盛を討つべく伊豆国で兵を挙げた源頼朝。
 そこに馳せ参じたのが、奥州平泉に暮らしていた弟の義経。

 「よく来たな、九郎義経。面を上げい」
 「兄者の大事(だいず)だ。べっこ遅くなったけんど、なんとが帰(けえ)ってきた」

 京都で育ったエリートの頼朝。
 それに対して義経は幼少期こそ京都で育ったが、その後は奥州、今で言う岩手県平泉に身を寄せていた。
 ということは、喋り方も奥州なまりだった!?

 その後、源頼朝は鎌倉幕府を開き、ここから武士による政権が始まる。

 「地方の武士達はそれぞれのお国訛りを持っていたはず」(小林千草教授)

 実際、平氏の大群を破り、いち早く上洛した木曾義仲に対して、「平家物語」にはこう記されている。

 「木曾の左馬頭(さわのかみ)、物いふ詞(ことば)つづきのかたくななること、かぎりなし」

 長野県木曾地方出身の義仲は、京都出身の貴族から「訛っている」とバカにされていたのだ。

 <武士が変化させた日本語の言葉>

 例)「かへりごと」→「返事」

 ひらがなよりもカッコイイという理由で漢字に変えた。
 読み方も「返事(へんじ)」に変えた。
 漢字はシャープで力強いので男性は憧れていた。
 従来、和語で表されていたものもあえて漢字に直して、それを音読みして漢語風にしていくということが流行ったのだ。

 鎌倉時代に作られた力強い言葉は、他にも現代に多く残っている。

 「ひのこと」→「火事」
 「こちなし」(礼儀を知らない)→「武骨」
 「おおいにせまる」(かけがえのない)→「大切」

 「武士は早く強くがモットーですから、従来のゆったりとした日本語の中に、素早く強くをコンパクトに表現できる言葉を入れ込んでいきました」(小林千草教授)

 このように鎌倉時代に武士たちによって作られた言葉。
 しかし、これとは別に、京都の公家を中心に話されていた都の言葉もあった。
 この二つが融合し、より現代の日本語に近付くのが室町時代。

(4)室町時代

 1338年、足利尊氏により京都に幕府が開かれる。
 この時、公家の町・京都にやって来たのは田舎者の侍たち。
 これには公家たちも黙っていなかった。

 「公家たちは自分が持っていた荘園を武士に取られて、貢ぎ物があがってこなくなりました。生活が困窮し、武士たちに自分たちの持っている知的財産、都言葉や立ち居振る舞いを教えることによって生計を立てるようになりました。いわば家庭教師のようなものですね」(小林千草教授)

 そう、室町時代の武士たちは公家に言葉や礼儀作法を習っていたのだ。
 これにより、雅な都言葉が武士の間にも浸透していくことになった。

 では、室町時代の都言葉とは?
 実は現代でも聞くことができる。
 それが伝統芸能の狂言。

 「ゐたか」
 「両人の者、お前におりまする」
 「念なう早かった。汝らを呼び出だすは別なることでもない。それがし、ちと所用あって…」

 これが室町時代の上流階級の話し言葉だという。

 「武士達が征夷大将軍、関白など位を上がっていくためには、天皇の認可が必要だった。その時に都言葉をきちんと話せることがとても重要なポイントでした」(小林千草教授)

(5)戦国時代

 この時代、都言葉はより重要性を持つ。
 豊臣秀吉も織田信長も尾張(名古屋)から身を起こした新興大名。
 天下を目前にしても尾張の訛りはなかなか抜けきらなかったという。

 それに対し、京都出身の明智光秀の言葉は美しかった。
 実は信長が光秀を重用したのは、彼が最上級の室町言葉を話せたからとも言われている。

 その一方で、今も日本に残る全国各地の方言。

 「現在、私たちが、え?これ同じ国の言葉?と思うような方言が熟成されたのは、江戸時代に入ってからなんですよ」(小林千草教授)

(6)江戸時代

 1603年、徳川家康が江戸幕府を開き、天下統一。
 しかしその後、幕府が押し進めた政策が「藩政」。
 日本全国が細かい藩に分けられ、関所により人の自由な行き来が少なくなってしまった。

 「経済的にも文化的にも各藩が独立して、生活できるようになったことで、必然的に他の藩との交流を持たなくてすみますから、それぞれの方言が深まってきました」(小林千草教授)

 260年余り続いた江戸時代の中で、それぞれの方言が発達していった。

 当然、江戸でも独特の方言が作られた。
 そしてこの江戸の言葉こそ、現代の標準語に大きな影響を与えることになった。

 武士は「山の手言葉」を使っていた。
 現在の四谷、赤坂、麻布など、東京の高台、いわゆる山の手に広がる武家屋敷で話された上品な言葉のこと。

 戦国時代に浸透した京都の都言葉が、伝統的に江戸時代でも武士の間で使われることになった。
 この「山の手言葉」は時代劇で聞くことができる。

 以下は「忠臣蔵」の一場面。

 「御手前の知った事ではない」
 「いや、是非とも承りたい。上様ご裁決の中に、主従の対面はまかりならんという一条がござったかどうか。この儀、武士の性根にかけて返答いたされい」

 一方で、庶民たちの間に生まれてきたのが、古典落語でおなじみの、「べらんめぇ」口調で早口の「下町言葉」

 一体なぜこのような言葉が生まれてきたのか?


そのアメリカのティーンエージャー1973年出版

 家康が江戸に幕府を開いたことで、田舎町に過ぎなかった江戸に、あらゆる地方の人間が移り住むことになった。
 幕府を開いてわずか100年で、100万人を超す大都市になったのである。

 「新しい町には新しい物好きの人たちが集まってきて、新しい言葉、そして文化が作られていきます」(沖森卓也教授)

 噂好き、話好きの町人たちによって、室町時代までの日本語が次々と変えられていった。
 人口の多い江戸ではよりスピーディーに情報を伝えるため、せっかちで早口な言葉が定着していった。

 さまざまな要素が入り乱れ、作り上げられていった江戸の言葉。
 しかし、100万を超える人口にどうやって浸透していったのか。
 その秘密はマンガ!?

 その答えが「往来物」という本に隠されている。
 中を見てみると、確かにマンガ。

 実はこれは寺子屋の教科書。
 江戸時代の日本人は、絵と文字を組み合わせて言葉を勉強していた。

 この「往来物」は身分に合わせて、農民用教科書の「百姓往来」、商人用には「商売往来」など、職業や生活風習により内容を変え、その数、7000種類も作られたという。

 この「往来物」の普及などもあり、江戸の町では70%を超える高い識字率を実現。
 多くの江戸っ子が日本語を使いこなしていたのだ。

 では、下町言葉とはどんなものだったのか?

 「江戸後期になると、江戸の庶民がどんな話し方をしていたかが分かる資料が多く出てきます」(小林千草教授)

 例えば、江戸後期に書かれた「浮世風呂」(1809年)という本では、風呂での町人たちの会話を忠実に再現している。

 その中の、10歳前後の少女二人の会話を見てみると…

 「お角さん、此あひだはお稽古がお休みでよいねへ」
 「アア、おまへもかへ、わたしもね、お稽古のお休みが何よりも何よりも、もうもうもうもういちばんよいよ。それだから、お正月の来るのがおたのしみだよ」
 「アアネエ、お正月も松がとれると不景気だねへ、もつといつウまでも松をとらずにおけばよいのに…」

 源氏物語から実に700年、江戸後期の日本語は我々でも十分理解できるものになった。

(7)明治時代

 日本に変化や改革をもたらした明治維新。
 実は国語が生まれるきっかけとなったのも明治維新。

 明治維新後の日本には大きな問題が。
 それは、日本語バラバラ問題。

 江戸時代、各藩の上級武士たちは江戸の言葉を共通語としていたが、明治維新に関わった多くの武士は下級武士たち。
 方言のためコミュニケーションが取れない事態に。

 それは、最後の将軍、徳川慶喜の回想録「昔夢会筆記」にも残っている。

 「昔、薩摩の人に会った時に困ったことがある。話をしても、言う事がちっとも分からぬ。向こうでは一生懸命話すけれども、少しも分からぬ。何とも答えのしようがない。ただふんふんと聴いたけれども、いいとも言われず、悪いとも言われず、はなはだ困った」

 コミュニケーションが取れない状態では近代国家としてやっていけない。
 そこで、日本人なら誰でも書けて話せる日本語を作ろうということになり、明治時代に初めて統一された日本語が誕生するのだ。

 「明治時代になると統一国家になってきて、教育も統一する、軍隊も作っていくという時代になってきますと、やはり統一した言葉が必要になります」(山口謡司准教授)

 まずは子供の教育からと、明治5年、全国で小学校制度が始まった。
 だがその時、東京には2つの言葉が。
 下町言葉と山の手言葉。

 地方出身者は、洗練されたインテリの雰囲気を持つ山の手言葉に惹かれていった。
 そして山の手言葉を日本の標準語とすることになったのだ。

 例外はある。
 それは「○○です」という語尾。
 これはもともと「おいらん」の言葉。
 ちなみに武士は「○○でござる」、商人は「○○でございます」、庶民は「○○だ」と話していた。
 「○○です」は、明治の初期に短くて上品だと上流階級で流行、標準語として広まっていった。

 さらに地方の言葉で標準語に取り入れられたものもある。
 それは「おかあさん」という呼び方。
 東京では江戸時代まで「おっかさん」と呼ばれていた。
 それまで「おかあさん」は西日本の一部でしか話されておらず、全国に広まったのは明治時代に標準語とされてから。

 また、「僕」「君」はもともとは維新の志士たちの流行り言葉だった。
 長州藩士などが「下僕」を意味する言葉を「僕」、「主君」を「君」と使い始め、定着していった。

 そんな中で、日本で最初にできた教科書が「小學讀本」。
 しかしそれは、小学1年生が理解するには難しそう。

 アメリカの教科書を漢文訓読調に翻訳したものだった。
 そのため難しすぎて、標準語を教える目的には全く適していなかった。

 明治維新によって外国の言葉や文化が入ってきたが、それに当てはまる言葉が日本にはないことも多く、そのため明治初期には、このような人が溢れていたという。

 「僕はブックを買いにテンミニッツ歩いてストアまで行ってきたよ」

 ルー大柴のように、日本語に外国語を混ぜて話す人が激増。
 これではいかんと、文学者たちは必死に造語を作った。

 皆さん、この中の言葉で、どれが明治以降に作られた言葉か分かりますか?

 「民主主義」「人民」「自由」「演説」
 「聴診器」「交響曲」「野球」「卓球」

 正解は全部!

 英語のスピーチを演説と訳したのは、福沢諭吉。
 教えを「演(の)べ説く」という仏教用語からそう訳した。

 「日本人が近代化を早く果たせた大きな原因のひとつは、西洋の思想、科学技術の言葉を日本語として理解できる形に翻訳できたこと」(沖森卓也教授)

 日本人が作った和製英語は、中国に逆輸入された。

 telephoneを意味する「電話」、これも元は日本語。

 そして国名の「中華人民共和国」までもが、日本が作った訳語が採用された。

 近代化の遅れた中国は、日本から学べ!と、和製英語を次々取り入れた。
 現在の中国でも日本語は人気。
 「美白」「歌姫」「人妻」なども日本から輸入した言葉。

 今でも日本人は「婚活」「草食男子」など新しい造語を次々作り出しているが、特に明治時代は新しい一気に新しい文化が入ってきて、次々に新しい造語が生まれていった。

 そんな中、今の日本語を語る上で欠かせない大革命が。
 それが、「言文一致運動」

 それまで日本では、書き言葉と話し言葉は区別されてきた。
 文明開化で多くの西洋人と会った日本人は、そこで日本語のある謎に気づく。

 話し言葉で「私は筆を持っています」を書くと、「我レ筆ヲ持チタリ」となる。
 日本人の当時の書き言葉は、文語体と呼ばれる漢字とカタカナの漢文訓読調。

 「私は筆を持っています」を英語で言うと「アイハブアペン」、これを書くと「I have a pen」。
 そう、英語では話し言葉をそのまま同じ発音で書き記していた。

 日本語が書き言葉と話し言葉が違っていることに初めて気づいた日本人。
 一方、日本にやってきた外国人は、日本語の難解な書き言葉にショックを受けた。

 当時、日本に英語を教えに来たイギリス人チェンバレンは「日本事物誌」の中で、「話し言葉と異なる書き言葉がある日本語、それを習得することはほとんど超人的な難業となる」と書き記している。


何月の男の子または女の子

 「日本語の話し言葉はそれほど難しくないが、書くのはなかなか大変。西洋ではアルファベットに代表されるような音を表す文字だけで事足りるが、日本語になると漢字がある。漢字がたくさん使われているし、さらに漢字にも音と訓とがあって非常に複雑ですね」(沖森卓也教授)

 中国から文字がやってきて約2000年。
 「万葉仮名」「ひらがな」と日本語の表記も進化してきたが、話し言葉と書き言葉は異なるものとされてきた。

 ようやくその2つが統一される時が。
 話し言葉と書き言葉を一致させる「言文一致運動」が起こった。
 その革命児が明治の小説家たち。

 まず二葉亭四迷。
 明治20年発表の「浮雲」という小説の語り口は、落語を参考にしたと言われている。

 現代でも何の違和感もなく読めるこの落語調は大成功。

 しかし、これはカジュアル過ぎると待ったをかけたのが森鴎外。
 明治23年発表の「舞姫」では……

 文語体ながら、「愁(うれひ)」「目(まみ)」など和語を駆使した優雅で美しい文体を披露。

 そこで文語体が復活かと思われたが、それを打ち破るべく登場したのが尾崎紅葉。
 これまであまり使われなかった言葉を小説に使った。

 それは、「生きているのである」「好かぬのである」「一大事なのである」、この文末。
 「○○である」を上手く小説に取り入れる、それこそ尾崎紅葉が起こした小説家の革新だった。

 「○○でございます」「○○です」「○○だ」では、読み手に直接働きかける主観的な文章になってしまう。
 「○○である」はそれまでできなかった客観的な説明を可能にして、小説界で大ヒットした。

 この「○○である」を使って生まれたのが、夏目漱石の「吾が輩は猫である」。
 さまざまなパロディ本が続出するほどの人気となった。

 はじめは反発のあった言文一致も、そのとっつきやつさからすぐに定着していった。

 明治の人たちのさまざまな努力の結果、明治33年、小学校令が改正される。
 読書・作文・習字の3教科を統一、「国語」という教科が新設された。

 そして全国一律で発行された国語の教科書で、画期的なことが起こった。
 ひらがなは一音につき一字だけを標準とする。
 つまり、ひらがなを48文字に統一したのだ。

 それまでは一音に何文字もひらがながあった。
 平安時代にできたひらがなは200文字以上。

 標準から外れたひらがなは変体文字と言われ、その名残は今も残っている。

 「うなぎ」の「な」や、「そば」という字。
 そして、お祝いの花に添えられる「○○さん江」の「江」は、もともと漢字ではなく変体仮名。

 このようにたくさんあったひらがなを、子供たちを教育するのに都合の良いよう一音一字に統一、現在私たちが使っている50音が完成した。

 しかし文字が統一されても、文字のヒエラルキー(階層構造)は依然、ひらがなより漢字であった。
 まず小学校で初めに習うのはカタカナだった。
 直線的で画数の少ないカタカナの方が覚えやすいというのが、その理由。

 憲法など公式文書で常に記されるのは常にカタカナ。
 ひらがなよりカタカナ、カタカナより漢字というヒエラルキーは、日本が戦争に敗れるまで続いた。

 最初の口語文の法律となった、昭和21年の日本国憲法。
 文語体ではなく口語体で表記、カタカナではなくひらがなを使った。
 それは、憲法を日本人の誰もが理解できるようにし、平和な国を築きたいという願いから。

 同時に、小学校の教科書も戦後はひらがな優先になった。
 その理由は、日常に使う文字はひらがなが圧倒的に多く、カタカナが覚えやすいとは限らないというもっともなものだった。
 戦後は法律文も全てひらがなという習慣が確立したのだ。

 では、明治時代、日本語はどのように話されていたのか?
 今から112年前にフランスで録音された日本人最古の音声。
 パリ万博に訪れた、東京新橋の料亭の女将の音声(番組では実際にテープを再生)。

 「おはようございます。昨日(さくじつ)ね、うちのおたまさんとね、パノラマからずっと博覧会の見物に出かけたんで、見栄いってパリッ子だろっていう風でやったんですよ。そうするとね、足に豆こしらえちまったん。うちにかえってくると泣きっ面さ」

 明治時代の東京の話し言葉は、今の日本人とほとんど変わらない。

 しかし、書き言葉に比べ、話し言葉の標準語革命は遅れた。

 「学校の教科書だけでは、聞いて分かるわけではない。実際に標準語を面と向かって話す機会は、まだまだ少なかった」(沖森卓也教授)

 レコードも録音テープもなかった時代。
 正しい発音やイントネーションがあまり分からなかった。
 そこに、標準語を広めたあるメディアが登場する。

(8)大正時代〜

 大正末期、関東大震災から2年、ラジオ放送が始まったのだ。
 「JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります…」

 しかしすぐに標準語が定着したかというと、そうではなかった。

 その理由は、これを聴けば分かる。
 昭和の初め頃のラジオ放送より(番組では実際にテープを再生)。

 「理想とは何か。自他共栄ということである。他を無視して、己のためのみをはかることは、社会生活とあいいれぬ」

 当時の放送の言葉は、明治以来の教育の影響で、難解な漢文訓読調が多く使われていた。
 そこで放送局では、このような注意事項を配って対策とした。

 「演説や朗読の口調を避け、ゆっくりした親しみのある調子で、座談風にお話くださることが感銘を与えるようであります…」

 そして昭和10年、全国に向けて、国語教育のための学校放送が開始された。
 子供のためだけでなく、標準語が上手く話せない先生のための朗読講座も開始。
 そこで標準語の正しい発音やアクセントが指導された。

 そんな涙ぐましい努力の結果、日本語は一気に標準語の画一化へ向かった。

 皆さん一度は聞いたことがあるだろう、昭和11年のベルリンオリンピックの前畑秀子選手の競泳200mの実況中継を。

 「前畑嬢、わずかにリード!前畑嬢、わずかにリード!…」
 「前畑がんばれ!前畑がんばれ!リード!リード!…」
 「あと5m、あと5m!…」
 「勝った!勝った!勝った!…前畑の優勝です!」

 ラジオ放送が始まってからわずか12年ほど、現在と変わらぬ標準語の放送が日本中に流れていた。

 漢字がやってきて2000年。
 万葉仮名を使い初めて1600年。
 ひらがなができて1100年。
 明治になって150年。

 我々日本人は、全国どこでも分かる日本語を手に入れたのだ。
 誰もが分かる標準語から、郷土色豊かな方言まで生き続ける日本語。
 そこには、教科書に載らない日本人の謎が詰まっているのだ。

◆ビートたけし、比叡山延暦寺へ

 比叡山延暦寺、午前6時。
 ビートたけしは、平安時代から1200年間続けられている朝のお勤めに向かった。

 まるで歌っているかのような節回しのある経は、声明(しょうみょう)と呼ばれ、古代インドで仏教が生まれた頃から伝わるもの。

 天皇や将軍たちに鎮護国家の要と認められてきた寺。
 今日もこの国が平安であるための祈りが続けられる、比叡山延暦寺をたけしが初めて訪ねた。

 京都と滋賀にまたがる霊峰に鎮座する、比叡山延暦寺。
 788年、伝道大師・最澄によって開かれた。

 京都御所を臨むこの地域は、平安時代、都の鬼門を守る国家鎮守の要とされた。

 また、漢字と前後して伝わった仏教の教えを守り伝える地として、日本の知の中枢と呼ばれる。


 親鸞、法然など多くの才能を輩出し、世界最初の小説「源氏物語」の中にも重要な役割を担って登場する。

 山中に150もの堂塔が点在する比叡山に、延暦寺と呼ばれる特定の建物はない。
 山全体をひとつの宗教的拠点として捉え、それを延暦寺と呼んでいるのだ。

 その中心が、最澄が最初に堂を建てた場所に造られた国宝・根本中堂。
 毎朝のお勤めはここで行われている。

 延暦寺総務部長の小林祖承師曰く、「仏さんの位置関係が、どうもよそとは違うんですね。よそは仏さんはわりと見上げるような位置におられるが、ここでは、立つと、仏さんと我々の高さが同じ。つまり、誰でも仏になる素質を持っている(天台宗の考え方)」

 「ただ、この下、3メートル下がっていて、奈落とか色んな言い方されますが、別の見方をすると、ま、究極の悟り、仏の世界に至る、修行の海と考えていただいたらどうでしょうか」

 誰でも仏に近づけるが、そのためには誰より厳しく自分を律し、努力しなければならない。
 それは最澄の生き方でもあった。

 幼少より秀才で知られた最澄は、19歳の若さで東大寺から僧として認められる。
 だが、当時の奈良仏教の在り方に疑問を感じ、わずか3ヶ月で全てを捨て、比叡山に籠もった。

 厳しい修行と経典研究から生まれた最澄の教えは、天皇や将軍など時の権力者を惹きつけていく。
 その一人、徳川三代将軍家光によって根本中堂が建てられた。

 小林祖承師に促され、柱を叩くたけし。それは貴重な日本けやきで造られた柱。
 全部で76本使われている。
 当時の日本中から持ってきたのではないかと小林祖承師。

 天台宗では法華経を中心とし、密教、座禅、念仏と、仏教が持つ多くの要素を学ぶことが求められる。
 その講義が行われるのが大講堂。

 堂内には比叡山に学び、その後、独自の宗派を開いた開祖達の像が並ぶ。
 親鸞、法然、日蓮、栄西……。

 小林祖承師曰く、「これは比叡山が勝手に作ったんじゃなくて、大講堂ができた時に、昔から縁があった各宗にお願いして、一体ずつ納めてもらったと聞いています。最澄さん自身が険しい山を修行の場として、人材養成を一生懸命やった」。

 最澄は自らの理念を表した「天台法華宗年分縁起」に、自らの筆でこう記している。

 「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり」

 つまり、正しい道を求める心を持つ人こそ、国の宝であるということ。

 遣唐使として唐に渡った最澄は、自らと後継者の教育のため多くの経典を持ち帰る。
 その後も多くの僧によって集められた経典や文書は、今や総数およそ11万冊。
 それらが収められた蔵である叡山文庫に、今回特別に入れてもらえることになった。

 一番古いものが、鎌倉時代に写本された経典「摩訶止観」。

 当時の僧侶はこの漢字を見たら、日本語で読むことができた。そして自分の理解を深めていった。
 当時の僧侶は国家試験のような難しい試験を通ってきた人たち。
 言葉(中国語)は喋れなくても、文字を見ればやりとりができる状態であった。

 経典研究と同じくらい最澄が大事に考えていたのが、経。
 自分の心と身体で仏を体感することだ。
 今でも比叡山の僧侶となるためには、3年間籠もり、さまざまな修行を行わなければならない。

 普段は入ることのできない、その修行のための堂を、特別に拝見させていただく。
 常行堂(じょうぎょうどう)。
 「常行三昧」と言って、阿弥陀如来像の周りを常に歩くという修行をする道場。

 ここで行われる行は、食事・入浴・排泄以外、90日間、不眠不休で念仏を唱えながら歩き続けるというもの。

 とは言ってもどうしても眠くなるので、行者たちの工夫で、平行棒のようなものが付いている。

 90日間不眠不休、肉体と精神の限界まで修行することで見えてくるのは何か?

 最後に、比叡山で最も年月を要する行を行う地、伝教大師の御廟である浄土院をたけしが訪れた。

 最澄の霊廟のあるこの場所で行われる行は、12年間、たった一人で欠かすことなく最澄への給仕を勤め、定められた勤行や修法を実践し続けるというもの。

 わずかに開いた襖の中から聞こえてくるのは、籠山中の僧が大師に捧げる経。

 「国の宝とは、すなわち人である」という最澄の教えは、1200年間、何よりもそれを伝え守り続ける人の心によって、今も生き続けている。

 たけしの感想。

 「昔も今も、人間の生きることと死ぬことに対して、未知なる部分に対する、理解をしようという、欲求なんだろうか、宿命なんだろうか。あれだけ理解しようとする、また理解できる人もいて、(最澄が)経典を探しに唐まで行った理由が良く分かる。そして、未だに人間の肉体と精神とを、ま、宇宙観もあるだ ろうけど、自分の心そのものを理解しようとする、人間の壮絶なこう、欲求というのはすごいなあと思ったね」

 _________________________大ざっぱな内容紹介ここまで

 普段私たちが何気なく使っている日本語。
 それが現代の形にたどり着くまでには先人たちの大変な苦労や努力があったということに、改めて気づかされました。
 先人の皆さん、ありがとうございます!

 あと、比叡山延暦寺を開いた最澄については、昨年2011年のこの番組(仏教特集)で詳しく取り上げられましたので、未読の方はぜひ下のリンクからどうぞ!

【12/1/10 22:30】YouTubeに動画を見つけました。画質が粗くて特に見づらかった「たけし、比叡山延暦寺へ」のコーナーのみ、画像を更新&追加しました。

※拙ブログ関連エントリー
・09/1/3放送「たけしの"教科書に載らない"日本人の謎」良かったです
・10/1/2放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(1)
・10/1/2放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(2)
・11/1/2放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎」仏教特集

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