米国の地理の概要 - 第8章
深南部
南部文化を持つ地域、すなわち「深南部(Deep South)」(地図7:23K)は、特徴的な信条、態度、行動様式、習慣、制度などで構成される地理的複合体とみることができる。かつての行動様式や現在の変化の多くは明らかに地理的な影響を受けている。ほかにも地理的意味合いを持つものが多い。
南部の中にも、大きな違いがある。メキシコ湾岸、南部の山岳地方、ジョージア州から南北カロライナ州に至るピードモント、そして内陸北部の各地域はそれぞれ、独自の南部文化を持っている。しかし、いわゆる「南部らしさ」を共有していることもまた明らかなのである。
伝統
ヨーロッパ人による最も初期のアメリカ入植は、商業と天然資源の開発を目的としていた。デラウェア湾の南、特にチェサピーク湾の南の海岸平野には、農業開拓に理想的とみられる地域が多数存在していた。夏は暑くて長く、定期的に雨が降り、冬が暖かいことから、入植者たちは、ヨーロッパ北部で栽培しているものに加え、様々な作物を栽培することができた。平野を横断する多数の河川は、少なくとも小船があれば航行することができたため、開拓はバージニア州のジェームズ川からジョージア州のアルタマハ川まで順調に進んでいった。
この地域の大半の地区では、人口密度が低い状況が続いた。村よりも規模が大きい都市圏は、港湾都市(バージニア州ノーフォーク、ノースカロライナ州ウィルミントン、サウスカロライナ州チャールストン、ジョージア州サバンナ)や、主要河川の航路の始点(バージニア州リッチモンド、後にはサウスカロライナ州コロンビアやジョージア州オーガスタ)に限られていた。南部文化の持つ濃厚な農村的色彩によって作られた行動様式は、20世紀半ば以降まで大きな意味を持っていた。
ヨーロッパ人は大西洋沿岸の南部低地の開拓に払った努力の最大の見返りは、高度に組織化された換金作物農業によって得ることができた。初期の南部植民地経済は、大規模農園(プランテーション)制度が次第に主役となっていった。ジェームズ川沿いや、さらに南のノースカロライナ州北東部でのタバコの栽培や、南北カロライナ州とジョージア州に多く見られた沿岸部の湿地の中やその周辺でのコメやインジゴの生産は、1695年以降になって重視されるようになった。当初はチャールストンからスペイン領フロリダの間にあるシーアイランド諸島に集中していた綿花栽培は、1800年ごろにかけて徐々に重要性が高まり、それから急速に内陸部に広がっていった。個人が所有する小規模な農場も多数あったが、プランテーション方式� ��成功によって、この方式が綿花栽培とともに西へ伝わり、19世紀の前半にはジョージア州、アラバマ州、ミシシッピ州、ルイジアナ州まで行き渡り普及していった。タバコも同様に、バージニア州やノースカロライナ州からの移住者によって、ケンタッキー州やテネシー州に伝えられた。
南部では、広域的な組織の発展が乏しかった。小さな市場の中心地が、物資の集積・出荷地点としての機能を果たしていただけだった。様々な経済活動を行う大都市の数は少なかった。こうした傾向に伴い、輸送網もまた、単に内陸の産物を沿岸の輸出の中心地に、手早く運ぶだけのものだった。小さな市場同士を結ぶ輸送網はほとんどなかった。その重大な結果として、この地域の農村部の住民のほとんどは孤立していた。
大規模なプランテーション農業は、毎年かなり多額の投資を必要とし、そのほとんどはアフリカからの奴隷労働力の調達という形の投資だった。このやり方がいったん確立すると、南部への移住は限定的なものになった。開拓希望者や都市労働者にとっては、北部の方がより多くの機会に恵まれることがわかったためである。従って、19世紀初め以降、南部における外国生まれの人の比率は、全米のどの地域よりも低くなっている。また、イギリス以外の国から米国への移民が、1840年代までは目立って増えなかったため、南部の白人の大多数はイギリス系が占めていた。
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イギリス系でもアフリカ系でもない長期居住者には2系統あり、1つはルイジアナ州南部のケージャン人、もう1つはアメリカン・インディアンのいくつかのグループである。カトリック教徒でフランス語を話すケージャン人の先祖は、カナダからのフランス人移住者である。ルイジアナ州南部の田舎に定住したケージャン人たちは、同州の他の地域が「深南部」の文化に次第に統合されていったにもかかわらず、文化的独立性を保っていた。アメリカン・インディアンのグループのほとんどは、中西部のインディアンと同じ時期に、同じように残酷なやり方で南部から追い出されたが、かなり多数の例外が南部に留まっている。そのうち最大のグループは、同州南東部に住むラムビー族とかつてノースカロライナ州南西部で一大勢力を誇 っていたチェロキー族の残党、ミシシッピ州中央部のチョクトー族、そしてフロリダ州南部のセミノール族である。
「深南部」文化のもう1つの大きな特徴は、農村共同体と自作農場に根を下ろしている。南部の人々は昔から、福音主義プロテスタントの信仰で知られている。今でも地方には、小さくて地味な教会の建物が点在しており、日曜日には、農村や小さな町に散らばって住んでいる信徒たちが必ず集まってくる。この地方には、メソジスト、米国聖公会その他のプロテスタント会派の教会が多いが、圧倒的に人数が多いのはバプチストである。
南部植民地で奴隷が広く用いられたことが最も大きな要因となって、南部文化に新たな2つの要素が加わった。その1つは、アフリカ文化の多くの要素がこの地域に伝わり、白人住民の文化と融合したことである。最初のアフリカ人がバージニア州に着いたのは1619年、初期のジェームズ川開拓地が築かれてからわずか10年後だった。奴隷が大量に輸入されてくるようになったのは18世紀に入ってからだが、この地域には最初から黒人がいて、地域の秩序と社会環境の一部をなしていた。南部の言語、食生活、音楽スタイルへ影響を及ぼしたことは、論議の余地がないところである。
奴隷の存在が文化に与えたもう1つの明白な影響がある。が、こちらは余り肯定的なものではない。ほかの人間を奴隷として扱うことを正当化するためには、奴隷とされた人々を下等とみなすことが必要であった。南部の白人は、黒人に対するこのような見方を受け入れたが、これはヨーロッパで18世紀の終わりまで続いた支配的な考え方とまったく変わりがなかった。しかし、19世紀に入る頃には、奴隷制度がそれほど重要でない地域で、この制度に反対する勢力が力をつけてきた。奴隷制度廃止の圧力が外部からかかるようになると、地域内では逆に奴隷制度を正当化する動きが激しさを増し、より独善的になっていった。
奴隷制度が北部と南部の争いの根本的な原因の1つとなって南北戦争が1860年代に勃発したが、それまでの間に、南部の地理的定住パターンと経済秩序は、植民地化が始まった当初と比べて、劇的に変化した。しかし、まだ農村的な色彩が濃いことに変わりはなかった。すなわち、都市開発は多数の村や小さな町に限定され、大都市のほとんどすべては海岸部や内陸の水路沿いの主要中継地点にあり、輸送網や通信網はまばらでしかなかったのである。
プランテーションでの綿花の栽培が非常な成功を収めたため、この地域の経済は綿花1色に支配されていた。タバコ、コメ、サトウキビ、アサなどの作物も栽培されたが、これらは主に地元の食糧供給源や、副次的な現金収入源として生産された。1860年当時、綿花は南部の経済だけでなく、少なくとも輸出額の点では、国全体の経済をも支えていた。この年、米国の製品輸出総額の60%以上を綿花が占めた。現在も綿花は南部以外の土地で生産されており、1996年の米国の農産物輸出額でみると、いまだに第5位と健闘している。
南北戦争での敗北により、南部の経済的基盤は大きな痛手を被った。鉄道網は寸断され、設備は差し押さえられた。船荷ターミナルは荒らされ、散在していた産業基盤のほとんどが破壊された。南部同盟国の通貨や債券は紙くずになった。戦後に販売するため倉庫や港に貯蔵しておいた綿花は、北軍に没収された。農場や耕地は荒れ果て、農機具や家畜は、しばしば盗まれたり、なくなったりしていた。奴隷による労働力の供給は正式に廃止され、大規模な所有地は分割されるか、重税をかけられた。
その後の展開
南北戦争後の最初の50年間は、南部にとって再適応の期間だった。白人たちは大量の黒人奴隷の地位から解放されたことに対して、何度か反動的な行動を起こしたが、最終的には人種隔離制度に落ち着いた。一方、黒人側も立場が変わったことを体験したものの、戦後半世紀以上たつまで、その好機を自分たちで活かすことはほとんどできなかった。この時期はまた、南部の人たちの態度がかたくなになり、ほかの地方から孤立しているという思いがさらに強くなった時代でもあった。
減量の挑戦を保持する方法
南北戦争前の経済組織の瓦解によって、戦後12年間の復興期間(1865年から1877年)に南部の多くの人々は苦しい時代を過ごした。輸送・製造能力の破壊もさることながら、すでにプランテーション経済は硬直化と奴隷労働力への過度な依存の極みに達していた。だが戦後、重い税金やその他の復興費用を賄うためには、熱心に資源の活用を続ける必要があった。最も有用な資源は、それまでと同じく土地であったため、この地域経済の主役はしばらく綿花栽培のままだった。
しかも、生産に必要なほかの要素は、もっと不足していた。現地資本は、その多くが戦争で消費されたり、戦後、北部によって課税の形で持ち去られたりしたために、枯渇していた。金利は急激に上昇し、農民は常に借金漬けの状態にあった。かくして、南部の農業依存傾向は長引くことになった。
小さな町では仕事がほとんどなかったため、田園地帯に住む多くの黒人たちは、まだ残っている白人の地主たちと、可能な限りの取り決めを結ぶしかなかった。農具、種子、住居、食糧の提供を受ける代わりに、他人の土地で栽培した作物の一定割合を地主に納める分益小作制という制度が、黒人にとっての生存手段、生活様式となった。それは、土地を失った多くの貧しい白人にとっても、同様だった。いったんこの様式が定着してしまうと、農村地域以外への黒人の移動を制限する「黒人取締法」もあり、また教育機会もろくに与えられなかったこともあって、それはますます強化されていった。たとえ自分の土地を手に入れても、黒人の農民たちには、障害が多かった。融資を受ける機会も乏しく、農場が小さすぎて生産を高め ることができず、地域の文化は反黒人的な色合いを持っていたからである。
1880年ごろ、南部の経済的機会を取り巻く状況は、新たな段階に入った。綿織物産業の発展をきっかけに、10年間で製造業が急激に成長した。1929年までには、全米の綿紡錘(スピンドル)の57%を南部が持つようになった。これは1890年当時と比べ、2.5倍以上の占有率だった。
綿や化繊の織物メーカー向け原材料を製造するために、この地域に天然繊維や合成繊維製造産業が出現し始めた。これは、織物産業が衣料メーカーに原材料を提供するのと同じ関係である。カロライナ・ピードモントとジョージア州北部で織物産業と衣料製造業が発達すると、地の利を生かして繊維メーカーの数と生産量も後を追って増加した。
綿織物産業が、経済機会の唯一の担い手だったわけではない。この地域の鉄道網の再建や、その他の公共施設の改善工事が資金の流れを刺激し、鉄道の町が発展した。紙巻タバコ製造業がノースカロライナ州とバージニア州のタバコ生産地帯に集まり始めた。連邦政府が新たな土地政策を策定し、鉄道網が強化されたことで、南部の豊富な木材資源が活用できるようになった。木材の多くは原材料として他の地域に運ばれたが、ノースカロライナ州とバージニア州の家具産業と(1936年以降は)南部一帯のパルプ・紙産業は、木材利用の新しい産業として成長を遂げた。これらの産業は、今でも引き続き重要性が高い。
さらに、19世紀の最後の25年間には、製鉄技術の進歩によって、テネシー州チャタヌーガが製鉄産業の中心地として台頭してきた。一方、アラバマ州バーミングハムの近くで質の良いコークス用炭の大きな鉱床が発見され、それから10年足らずのうちに石炭層の開発がはじまった。無数の製鉄会社や、鉄あるいは鉄鋼を利用する産業が、バーミングハムとチャタヌーガの市内やその周囲に集まった。19世紀末までには、この2つの都市と、輸送の中心であり付随産業を持つジョージア州アトランタがまとまって、重要な産業の三角地帯が形成された。
こうした発展は、南部の経済地理に重要な影響を及ぼした。なぜなら、鉄鋼生産は、鋼材を利用するほかの製造業を引きつける傾向があるからである。さらに、これらの産業は、繊維やタバコなどのような、低技術、低賃金の産業ではない。また、非農業的な経済発展を続けるこの一帯は、南部の中心に位置しているため、各都市とほかの主要都市部とのつながりを通じて、労働者の技能、所得水準、一般的な経済的福祉の増進に活力を与え、南部全体の産業拠点にもなり得る可能性を秘めていた。
これは、ある程度、実現はしたのだが、バーミングハム製の製品に対して差別的な輸送料が課せられたために、利益をもたらす効果が著しく減ってしまった。この料金慣行は最終的には違法と判断され中止されたが、この政策によって、20世紀初めの急速な経済発展の時期に、アラバマ産鋼材の生産コスト面での競争優位性は厳しく制限を受けたため、南部の産業発展の遅れにつながった。
なぜアメリカは
1880年代末から1890年代にかけて、南部住民の生活面で、ますます人種分離を義務付ける制限的な法律が、南部各州で成立した。公的な人種隔離には様々な地理的特徴があった。学校は2種類運営された。レストラン、レクリエーション施設、公園のベンチ、水飲み場、トイレ、その他、黒人と白人が接触しそうな場所についても、2種類の施設を作って維持しなければならなかった。住宅は白人地区と黒人地区に分けられた。いくつかの職業には、就職に狭き門が設けられた。黒人が投票しようと思うと、陰に陽に制限が加えられた。
南北戦争の終結からほぼ50年間、南部を離れる黒人はさみだれ式で、その数はほとんど増えなかった。かくして1870年には全米の黒人の91.5%が南部に居住していたが、その比率は1910年でも89%であった。しかし、その後の10年間で南部を出る黒人の数は急増した。制限的な法律や暴力、どん底とも言える経済状態によって、南部から「押し出された」のである。それと同時に、第一次世界大戦勃発を契機に、北部の産業が黒人たち(そして貧困層の白人たち)を南部から「引き抜く」ため、多大な努力をしたことも事実である。
1914年以前には、米国産業の成長のカギを握っていたのは、多大な労働需要を満たす何百万人ものヨーロッパ系移民だった。1910年には、米国人口の3分の1以上が、外国生まれか、ないしは少なくとも片親が米国以外の生まれだった。
第一次世界大戦によってヨーロッパからの労働力の供給が途絶えると、その代わりの供給源として、南部の貧しい失業者や不完全就業者の大群に目が向けられた。
かくして黒人の北部への大量脱出が起きたが、特定の黒人層だけの脱出だったならば、南部経済は打撃を被らなかったかもしれない。ところが実際は、南部を離れた黒人のほとんどは18歳から35歳の間だった。働き盛りの彼らは、南部で育ったのに、経済的に最も生産性が高いせっかくの時期を、南部以外の場所で過ごすことになった。残った人々の多くは、働き盛りを過ぎていたり、現役を引退していたり、就労年齢に達していなかった。人種によって専門職に就く機会が制限されていたこともまた、最も高い訓練を受けた若者の多くを、南部が失う原因となった。
南北戦争のもう1つの結果は、この地域で以前から感じられていた地縁主義が強まったことである。南部は、戦勝軍による占領を経験した、米国で唯一の土地であり、その後に味わった苦く辛い思いが和らぐには1世紀以上の時間と大きな経済成長を必要とした。
南北戦争とその後の復興は、南部の白人を団結させるうえでも役立った。「結束した南部(Solid South)」とは、この地域全体が一致団結して、しばしば全国的な趨勢に逆らって投票することを意味した言葉である。戦争と復興は北部と共和党を連想させたため、南部の白人たちは反対党・民主党の頑強な支持者になった。その後、南部の白人が民主党とのイデオロギー的結びつきに耐えられなくなった。このため、地方中心主義をはっきり示す「南部民主党員」という名称が一般的に使われるようになった。今日では、国の政治も南部の文化も変化したため、南部はもはや民主党支持で結束しているわけではない。南部で選挙で選ばれた公職者を見ると、その政治的信条の幅はかなり広いが、大多数は伝統的な政治的志向をある程度持ち続けている傾向にある。
変化の始まり
「新しい南部」の空間的・地域的特徴は、何十年、時には何世紀もかけて進化してきた地域の様式の上に築かれてきた。近年の変化を生んでいる最も大きな要因は、地域的孤立が次第に薄れていることにある。
20世紀半ばまで、指導層はもとより、大半の人たちは、何かにつけて、まるで南部は別の国であり、嫌々ながら北にある隣国の相手に付き合っているかのような対応をしていた。しかし、1930年代後半以降、特に1940年代後半からは、外部の動向や圧力が南部にも浸透し、孤立の垣根を壊し始めた。
1930年代の南部の経済は、1870年当時とほとんど変わらなかった。つまり農業一辺倒で、主に輸出に当てる農産物の生産と資本の不足を畜力や人力への依存が支えていた。そして分益小作制度や小作農契約と、この地域に独特の「クロップ・リエン制度」(収穫の一部を担保とすることを条件とする融資)による農業経営を特徴としていた。ほかに見るべき産業があったとしても、その大部分は低賃金であるか、狭い地元市場向けのものばかりだった。この地域の都市構造も、このような特徴を反映し続けた。南部の一般的な都市の形は、小さな市場の中心地、鉄道拠点の町、織物工場の町、郡庁所在地などだった。
その後の50年間に、途方もなく大きな変化が起きた。1950年代初めまでには、この地域の労働力の半数以上が、都市に基盤を置く非農業雇用に従事していた。それ以降、農業の比率は下降を続けている。これと並行して、製造業とサービス産業での雇用が急増した。それだけでなく、南部の産業構成は多角化の傾向を強く示してきた。南部の製造業はもはや、原材料の初期段階の加工に限定されてはいない。
農業でも多角化が進んだ。綿花は今でもこの地域で最も重要な換金作物だが、そのほかにタバコ、サトウキビ、ピーナッツ、コメなども栽培している。しかし、綿花の作付面積は昔と比べものにならないほど、ごくわずかである。作付面積縮小は、かつての生産地域にある古い綿紡績工場の荒廃にも裏付けられている。
綿花の優位性が低下する一方で、畜産や大豆などの重要性が急激に伸びた。農家が質の高い牧草や飼料を使い、また多量の肥料を用いて放牧地の状態を改善したため、牛肉の生産が大幅に拡大した。同時に、暑くて湿度の高い南部の夏に耐えて成長するような、牛の新種が開発された。過去30年間で、米国のブロイラー・ひな鶏の生産は工場化され、南部に集中するようになった。
さらに劇的変化を遂げたのは、農業の生産方法だった。可能となれば、どこの生産過程にも機械がどんどん使用されるようになり、地域農業の効率は以前と比べて格段に向上した。伝統的な分益小作制度は1930年代半ば以降、ほぼ姿を消し、南部の平均的な農地の規模は急速に拡大した。
南部の経済も1930年代末の大恐慌後の経済拡大の恩恵にあずかったため、南部内部での、地方から都会への人口移動が急増した。1940年には、南部で人口5万人以上の都市は35しかなかった。1950年にはその数が42に増え、1980年には75に達した。これより小さな南部の町の多くも、より大きな成長の中心都市から活力を得て、ある程度発展した。
産業の成長に伴い、そして農業の多角化に匹敵する変化に富んだ産業構成を作り出す可能性を秘めた産業の多角化に誘発されて、人々は都市に吸い寄せられた。製造業の仕事に従事する非農業労働力の割合は、この地域のほぼすべての地区で大幅に増加した。鉄鋼、タバコ製品、織物などの伝統的な産業は、一定期間、地域的には重要だったが、別の種類の製造業の出現によって優位性は低下した。南北カロライナ州の合成繊維と、ジョージア州北部のアパレル産業は、この広範な産業カテゴリーの中で、活動の幅を広げていった。化学産業はメキシコ湾沿岸地域で急激に拡大した。カロライナ・ピードモント中央部の家具の生産も増え、そのほかにも東部やメキシコ湾沿岸の平野で木材加工工場が多く見られるようになった。造船業 はバージニア州ノーフォークで続けられたほか、メキシコ湾沿岸の数カ所でも始まった。ジョージア州マリエッタでの航空機製造によって、アトランタ地域には熟練労働者が集まり、賃金も上昇した。
最も意義深いのは、平均的な南部の消費者の賃金が上昇したため、地域市場が拡大して、多くの消費財メーカーが南部に集まってきたことだった。これによって、非農業労働力の需要が高まった結果、所得の分配範囲が広がり、地域市場が強化された。
南部の産業が急速に発達したのは、地域市場の成長によって次第に多くの製品やサービスが必要になり、その対価を支払うことが可能になったためである。しかし、それでも「なぜ市場が拡大したのか」という疑問が残る。ある専門家は、連邦政府の農業調整法(1935年と同年以降)が大きな刺激となって市場が成長したのではないか、という説を提唱している。
同法が発効する前、農産物の価格は、国際市場での需給によってほぼ決まっていた。南部にとってこれは、例えば、南部産の綿花価格が、世界のほかの生産地域の綿花の出来・不出来によっていくらか変動するということを意味する。さらに重要なのは、南部の綿花栽培の競争相手は、いまだに大部分が植民地経済の中にある世界各地の綿花生産者だったことである。農業調整法により、農業従事者の賃金と農産物の価格が、全米の産業別賃金格差に基づいて引き上げられると、南部の製品市場は急速に発達して、成長のスパイラルが始まった。それは現在もこの地域に影響を及ぼしている。
連邦政府の介入行為が、南部の社会機構に大きな影響を与えた例として、さらに広く認識されているのが、1954年の連邦最高裁判所の判決である。最高裁は、それまで70年間にわたって認められてきた「分離すれども平等(separate but equal)」を建前とする人種差別政策を違憲とする判断を下したのである。この判決によって南部の社会地理学的変化が始まった。この変化は、人種によって機会が左右されていたあらゆる場所にも広がり、その波紋は今日でもとうてい収まる気配を見せていない。
1930年代半ば以降に起きた南部の変化の多くに共通する特徴は、地域的な特異性が徐々に低下していることである。農業への依存に代わって、経済が多角化している。この地域の低賃金労働力は、ほぼ枯渇したとみられている。新たな産業やサービス活動にはこれまでよりも厳しい競争が待っている。そのことが徐々に賃金を押し上げていく可能性がある。北部から、特に地域の大都市圏へ多数の人々が移住してきたため、一部の都市では文化の南部的な特徴が弱まり、ごく普通の都会の色彩が鮮明になってきている。
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